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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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宗教心に昇華し平和の願い描く

2009年12月10日付 中外日報(社説)

ポケット判の手帳に、横書きでぎっしり書き込まれた日誌。片仮名、平仮名を併用しての走り書きだ。名文ではないが、戦中の生活を知ろうと望む人々の胸を打つものがある。

『新潮』十二月号の約三十ページを埋めた「井上靖 中国行軍日記」は、戦場となった中国の町や村の悲惨なありさまを描写する貴重な記録である。

戦後、作家として重きを成した井上靖氏は、大阪毎日新聞社(当時)に入社して直後の昭和十二年(一九三七)八月から翌年三月まで、輜重(しちょう)隊の特務兵として応召、中国河北省の石家荘付近へ派遣された。数え年三十一歳。その年七月に日中戦争が始まったばかりだった。

輜重隊は第一線の部隊に弾薬や食料を届ける役で、いわば縁の下の力持ち。機密を守るためか、何という物質をどれだけ運んだかは記されていないが、トラックや馬で輸送する。

物資優先だから、運び役の輜重兵は泥まみれで黙々と、軍馬の手綱を引いて歩く。いったん南下した道をまた北上するなど、無駄足を踏むことも。足の裏はマメだらけだ。周囲には屍臭が漂っている。

帰国・除隊が近いとの噂(うわさ)にヌカ喜びしたら、翌日はさらに奥地へ進む命令が出て、失望する兵士たち。厳正な軍紀を守るどころか、機会あるごとに兵士は人影の消えた農家から家畜や食料を略奪する。井上氏自身が略奪に加わったとの記述はない。その代わり、ようかんやまんじゅうなど甘い物に出合うと、手当たり次第口に入れる。体にいいはずはない。

十一月中旬、井上特務兵は脚気となり、野戦病院に収容される。病状が好転せず翌年一月に内地送還。やがて除隊し、記者生活に戻ることができた。

輜重隊は最前線で戦う兵科でないため、軽視されることもあった。特務兵はその中でも最下級とされていた。それが幸いして戦死を免れたわけだ。

この井上日記は、文壇にも反響を呼んだ。毎日新聞の学芸面では、文芸評論家の川村湊氏が「小説家は何を書くべきか」と題して、要旨次のように記す。

「こうした従軍体験を持ちながら、井上靖が戦争や軍隊について書いた作品は非常に少なく、短編や散文数件しかない。『新潮』誌上に解説を書いた曽根博義は『自分がふがいない兵士だったという後ろめたさ』によるものではないか、と推測している。しかし井上靖が、そうした『後ろめたさ』を克服して、日本兵や日本軍の真実の姿を作品化してくれていたら、戦後文学はまた違った展開を示しえたのではないか」

確かに、読者としては、そう感じるのが自然であろう。だがテーマは違うが、朝日新聞の「天声人語」には、平山郁夫画伯の逝去に寄せて、要旨次のような記述があった。

「画業の原点には、広島での被爆があった。だが15歳で見た地獄は、画家の筆を凍りつかせた。描きたいのは『平和』だったが、原爆の絵は心の傷口を広げるのが怖くて描けない。悩み抜いてたどり着いたのが仏教だった」

「天声人語」は、平山画伯が描いた「仏教伝来」をはじめシルクロードを描いた名品について「中国西部の砂漠の厳しい光景も、平山さんの内面を通るうちに浄化され、静謐な叙情となって画布に現われたのだろう」とも記す。

井上氏もまた戦場での体験が鮮烈であっただけに、中国戦線の真の姿を、文字にしようにもできなかったのではなかろうか。帰国後に宗教欄を担当した経験を生かして『天平の甍』『楼蘭』『敦煌』など、平山画伯と同様、仏教伝来や西域を題材とした名作を生んでいる。

遠回りのようだが、戦争体験をいったん宗教心に昇華して文学や美術に生かす道もあることを、井上、平山両氏は示してくれた。