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あの年の広島を記録した日記帳

2010年1月16日付 中外日報(社説)

今から六十五年前、日本が戦争に敗れた昭和二十年(一九四五)の元日から大みそかまで、克明に日記を書き続けた少年がいた。この年に、広島師範学校附属国民学校(現・広島大学附属東雲小学校)から広島高等師範学校附属中学校(現・広島大学附属中学、高等学校)へ進学した新井俊一郎さん=元中国放送報道部長、現在七十八歳=が日記の主だ。

友達からもらった日記帳や大学ノートに、旧仮名遣い、旧字体でつづった激動の年の日記全文を、新井さんはこのほど『軍国少年シュンちゃんのヒロシマ日記・復刻版』と題し、自分史の一環として出版した。自分史とはいいながら、軍国主義日本が民主国家日本へ急変する経過を、一人の生徒として見つめた貴重な記録である。

新井少年は最初、県立広島一中(現・広島国泰寺高等学校)志望だった。国民学校の担任の勧めで、高師附属中学校へ進学することにした。この勧めがなかったら、新井少年は命を失っていただろう。

なぜなら、この年に広島市内の中学校や女学校の一年生の大多数は、広島市中心部での作業中に原爆に遭ったからだ。ところが附属中学校の生徒だけは、平成十七年三月一日付の本欄に記したように、原爆の直前、食糧増産のため、現在の東広島市の農村に動員され、被爆をまぬがれた。

だが新井少年は八月六日の被爆当日、教師から、広島市内の学校本部へ、報告書類を届けるよう命じられた。ついでに自宅で一休みしてこいとの温情も含まれていたらしい。駅で広島行き列車を待っていた時、ピカッと空が光った。

途中の駅で列車がストップしたため、新井少年は広島まで約十キロを歩き抜く。燃えさかる火を避けながら学校へたどり着き、生き残った先生に報告書類を手渡した。安全な場所にいたはずが、書類を届けるためわざわざ"入市被爆"をしたことになる。その影響で新井少年は数日間、体のだるさと闘った。それだけではなく成人後は、原爆後遺症とみられるガンで四回も手術を重ねる。

さて、日記に記されている戦局の動きであるが、国民学校在学中の三月に硫黄島が米軍に奪われる。中学生になって、ルーズベルト米大統領が急死した直後、ドイツの首都ベルリンが陥落する。「独総統ヒトラー氏は名誉の戦死を遂げられたさうである。自分の生命を祖国のために捧げたのである」とヒトラーを称賛している。

小磯内閣から鈴木内閣への政変は事実だけを記しているが、六月二十二日、米艦上機の大編隊が来襲した様子は生々しい。七月二十日、附属中学校一年生は農村動員で、東広島市の寺院と神社へ向け、慌ただしく出発する。

八月十五日の玉音放送については「我が今上陛下には、ラジオに於いて我が国が講和するに至った事を述べられ……」と記し、約一週間、日記は空白になる。この間に新井一家は、超満員の列車を乗り継ぎ、父母の出身地である埼玉県の秩父在へ避難する。弟を含め家族四人は、代々神職を務める本家をはじめ、親類縁者に温かく迎えられた。再開後の日記は、米英相手に勝ち抜こうとの文体は影を潜め、いとこと交流する様子が中心だ。

「われながら、軍国少年から民主少年に急転換しているのに驚かされます」と新井さん。当時の青少年の気持の切り替えの早さがうかがえる。郷里にあること約三ヵ月、父母の健康回復とともに一家は広島へ向かい、新井少年は十一月十九日、東広島市にいる級友と再会するのである。

日記には、国民学校の同級生の名前が至る所に登場する。そのほとんどに「のち被爆死」の注釈のあるのが悲しい。生き残った後ろめたさを秘めたこの新井日記が広く読み継がれることを期待したい。