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『わが非暴力』

2010年2月13日付 中外日報(社説)

第二次大戦後、藤井日達氏を指導者に仰ぐ「日本山妙法寺」の活動は世界に衝撃を与えた。戦前生まれの筆者はその当時の印象を今も鮮やかに記憶する。

昭和八年十月、インド中央部ワルダで、藤井氏はマハトマ・ガンジーと出会った。ガンジーが無抵抗主義を実践していたころのことである。即座に二人は共鳴し、双方の敬意は生涯を通じて続いたと聞く。藤井氏の世界平和への願い、「わが非暴力」の誓いはここに確かめられたのである。

映像を通して藤井山主を知る多くの人々にとっては、おそらく基地反対闘争で太鼓をたたく日本山妙法寺の人たちの姿が印象的であろう。その一方で、藤井山主らは世界各地に百以上もの「仏舎利塔」を建立し、世界平和のため共に祈ることを訴えた。この仏舎利塔は冷戦状態にあったモスクワにも、さらにロンドンの公園にも建立されているという。しかも、要した費用は原材料費だけで、すべて日本山妙法寺の人々の手によって完成させたということだ。

藤井山主はニューヨークで自ら太鼓を打ってお題目を唱え、『法華経』の教えを人々の心根深く植え込もうと尽力した。その間、家庭から捨てられたゴミの中に食糧を求めて過ごしたという。それが、師にとっての「乞食(こつじき)の行」であった。後年、モスクワで布教をした弟子も同様な乞食行に生き、現地から弟子を従えて帰国している。

その壮絶な生き方を同時代の仏教人は知っている。もっとも、同じ仏教者であればこそなおさら、ということなのだが、あまりにも凄絶に生きる藤井山主のそばに近づく勇気はなかなか持てるわけではない。だが当時、この藤井山主に取材し、見事な成果を挙げた人がいた。若き日の山折哲雄氏である。

山折氏は昭和四十七年ごろは某出版社に所属していた。氏の才能に感服していた社長は「藤井日達師の半生を聞く」という企画に賛同し、山折氏は縁をたどって国際的に活躍していた藤井山主を熱海の道場に訪ね、数次のインタビューを試みるのである。

それはジャーナリストなら誰でも考える企画かもしれない。しかしこの対談は宗教者、宗教学者として優れた理論と感覚に恵まれた山折氏でなくては、藤井山主の信頼のもとに実現することができなかったのではないか。

藤井山主の信仰と実践に敬服する筆者らにとって、これは感謝に堪えない。

それから二十年後の平成四年、同書は『わが非暴力 藤井日達自伝』として復刻される。残念ながら筆者は復刻の事実を知らず、同書に巡り合ったのはつい最近、さる古書店の店頭であった。

日々消費される膨大な書物の山の中で、価値ある書籍は冷遇され顧みられることなく消えてゆく。宗教関係の出版物も例外ではないようだ。

それはさておき、同書をひもといて、藤井山主の活動の全体像をあらためて思い起こすことができた。

藤井山主と日本山妙法寺の実践は、同系の宗門から必ずしも全幅の敬意を受けていたわけではないかもしれない。しかし、そのすさまじいまでの法華経の行者の実践は、貴重な記録として永遠に記憶されるに違いない。

それをまとめ、後世に残した他宗門出身の山折氏の鋭敏な感覚と広い視野からの展望の姿勢に対し、敬服の念を新たにするところである。