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平和願う記録誌 被爆者が手作り

2010年2月16日付 中外日報(社説)

「我が家の焼け跡はすぐ分かった。建物は完全に焼け落ち(中略)居間とおぼしきあたりで、寄り添うように庇(かば)い合うように横たわった2つの遺体を見つけた。体の大きさから見て姉、廸子(広島市立高等女学校2年)と弟、公資(6才)のものと判断された(後略)」

兵庫県の川西市・猪名川町原爆被害者の会(釘本尚具会長)が昨年秋に出版した『被爆体験と記録・平和を願って』に、川西市在住の役員、山崎恭弘さんが寄せた体験記の一部だ。

当時、中学校一年生だった山崎さんは、原爆投下の日、爆心から南へ十七キロ離れた能美島(現・広島県江田島市)にいた。翌日、父母と自宅の焼け跡に駆け付けた。原爆ドームの西南〇・四キロの塚本町(現・中区本川町)である。

末弟、功四郎ちゃん(当時四歳)の遺骨は数日後に発見したが、同居していた伯母夫婦は見つからなかった。ほかにも親戚十一人の行方が知れず、連日、爆心地周辺を歩き回った。いわゆる"入市被爆"で体調を崩し、医師から静養を命じられた。

釘本会長は、長崎で被爆した。爆心から二・七キロ東の上長崎国民学校五年生。倒れた校舎から這(は)い出し、崩れかけた家へ帰って腕の傷を手当てしてもらった。

「(近くの伊良林国民学校の)運動場では、材木を積み重ねて、死体を担架で運び焼いていた。(中略)死体は、腕や足が曲がったまま硬直しており、その情景が今も私のまぶたに焼きついている(後略)」

被害者の会の副会長を務める藤山幸弘さんは、専門学校一年生。長崎市北部の昭和町で被爆した。爆心から一・八キロ離れていたが、灰をかぶり、四十歳のころまで毎朝のように鼻血に悩まされた。

会員の中から、被爆体験を語り部として話すだけでなく、手記の形で後世に伝えようという声が上がったのは、広島被爆の藤本真佐男さんが会長だった平成十二年である。当時の会員は約百二十人。毎年、少額ずつ出版費用を積み立てるとともに、原稿作りに取りかかった。

しかし高齢化のため、筆が進みにくい人もいる。そんな人からは、被爆場所や当時の年齢などを書き込む調査票を作り、アンケート方式で答えてもらった。調査票の裏面にぎっしりと感想を書いた人には、編集委員が聞き取りをして加筆、手記に仕立てた。逆に、発行済みの自分史を持ち込んだ人には、被爆に関係のある部分をピックアップすることにした。

印刷費を節減するため、集まった原稿はパソコンのできる人三人が手分けして入力した。文字通りの手作りだ。そのために、ページによって印刷字体が微妙に違っている。

途中で藤本会長急逝という事態があったが、後継の役員らが頑張った。現在の釘本会長が「ボツボツと進めました」と言うように、足かけ十年の息長い作業になった。こうして手記二十編、調査票回答六十七人分がB五判百六十一ページの冊子にまとめられた。

地域内の学校に配ったところ、意外に大きな反響があった。平和学習を兼ねた修学旅行先を、小学校は広島、中学校は長崎とする所があり、この冊子は何よりの事前学習資料になるというのだ。被爆者が臨時の講師に招かれる例もあるという。

川西市・猪名川町の被害者の会は独力で記録誌を作ったが、今後、他の地方で同様の冊子が作れるかどうか。そこで想起するのが、約二十年前、二度にわたり高齢の被爆者の体験を聞き書きして『炎の記憶』誌を作成した、浄土真宗本願寺派安芸教区広陵東組(広島市)の寺族や門徒たちの働きである。宗教者の力で、被爆者の言葉を後世に伝えることはできないか。明日では遅いかもしれないが、今ならまだ間に合う。