ニュース画像
落慶法要に続き、つき初めする小堀管長と見守る坂井田住職(右)
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

玄宗皇帝と道教

2010年4月1日付 中外日報(社説)

八世紀の中国を半世紀近くにわたって統治した唐の玄宗。白楽天の「長恨歌」に楊貴妃との悲恋を歌われている玄宗は、「御極(在位)多年にして、長生軽挙の術を尚(たっ)とぶ」と『旧唐書(くとうじょ)』礼儀志が評しているように、すこぶる道教に入れ揚げた天子であった。

「長生軽挙の術」とは、永遠の生を生きる神仙となるための道術。道教はそのような神仙を神々に仰ぐ宗教であり、道教徒の最高の理想は自らが神仙の列に加わることであった。「長恨歌」にも仙界の影が揺曳(ようえい)する。

玄宗の治政を評して、唐末五代の道士である杜光庭は、「開元、天宝の間、四海は昇平なること三十余載。神仙は賛助し、賢良は朝に在り、而して心を大道に冥し、庶政に憂勤す」(『道教霊験記』巻一四「玄宗拝黄素文験」)とまで称揚している。開元(七一三-七四一)、天宝(七四二-七五六)を年号とした玄宗の時代、三十余年にわたって天下が平和であったのは、神仙の加護があり、優れた人物が朝臣として控え、かくして玄宗は道教の真理に心を冥合させ、万般の政務に腐心し精励したからだ、というのである。

しかしながら、玄宗が道教一辺倒となったのはその治政の半ば以後のことであり、それ以前においては、道教に対してむしろ抑制的な態度を持していたように思われる。『資治通鑑』は、開元二十二年(七三四)条に玄宗の覚えめでたかった神仙家の張果の神異の事績を述べた上、「上(天子)は是れに由(よ)って頗る神仙を信ず」と記しているのだが、そこの胡三省の注に次のようにある。

「明皇(玄宗)は集仙を改めて集賢殿と為す。是れ其の初めは心に神仙を信ぜざるなり。是こに至って則ち頗る信じ、又た晩年に至って則ち深く信ぜり」。集賢殿はアカデミーの建物。従来は集仙殿と呼ばれていたのを、神仙の「仙」の字を嫌って集賢殿と改名したのは開元十三年(七二五)のことであった。

ところがその後、開元二十二年を境として、玄宗は従来とは異なって神仙を「頗る信じ」るようになり、とりわけ天宝の時代になって「深く信じ」るに至ったというのである。事実、開元から天宝の世と改まると、玄宗が日常の生活を営む興慶宮の大同殿には神仙の神像が祭られ、玄宗は払暁から勤行に励んだ。また洛陽東南の嵩山に道士と宦官が遣わされ、不老長生の薬剤を得るための錬丹が行なわれもした。

ところがそのような折も折、突如として勃発した安禄山の乱のために、玄宗は都の長安(陝西省西安市)から成都(四川省成都市)に難を避けざるを得ず、楊貴妃もその道中の馬嵬坡(ばかいは。陝西省興平市)において命果てる。息子の粛宗が霊武(寧夏回族自治区霊武市)で即位したのに伴って上皇の位に退いた玄宗が再び長安に戻ることを得たのは至徳二載(七五七)十二月のことであった。

こうした玄宗の最晩年に属する「通微道訣碑」(『金石萃編』巻九一)なるものが存在する。乾元二年(七五九)の六月二十五日、上皇玄宗が大同殿で口授した言葉を石に刻み、粛宗が道士の楊重彎(ようじゅうわん)に命じて長安北方の三原県の道観の大化観に立てさせた碑文であるが、そこには天宝時代の熱狂的な態度とはおよそ打って変わって、玄宗の鎮静化した道教信仰が吐露されている。

すなわち、「不義の財を積んで以て布施と為す」ことは誤りであるとした上、次のように述べられているのだ。「施(布施)は福(ご利益)を求むること勿(な)くして福は自(おの)ずから至り、斎(斎会)は功(功徳)を貪ること勿くして功は自ずから備わり、心は邪に向かうこと勿くして道は自ずから致(まね)かる」、そのようでなければならぬと。

ご利益を目的とせざる布施、功徳を貪ることなき斎会、それに邪悪に向かうことなき心。これら三者の重要なことが強調されているのであって、いわば「施して福を求め」「斎して功を貪った」ところのかつての道教信仰が、玄宗自らによって見事に一蹴されているとしなければならない。

玄宗にとって、安禄山の乱以後に経験した苦難の数年は、深刻な自省を促すに足る充分な時間であったのであろうか。