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"格差"付けとは異なる価値観を

2010年4月8日付 中外日報(社説)

今年二月のバンクーバー冬季オリンピックでは、美技に酔った人も多かったことだろう。しかしそこで展開された演技は"競技"であり、否応なしに序列が付けられるのである。スピード競技は所要時間で勝負が決まるが、フィギュアは得点で順位が決まる。百分の一秒でも、たったの数点でも、差は差であって、たとえ順位など付けずに皆で楽しめばよいのにと思っても、無情にも勝者と敗者が分かれる。

スポーツだけではない。文化の世界でも同様であって、さまざまな学会賞や文学賞等から始まって、国の文化勲章があり、世界的にはノーベル賞などがある。受賞者と、選に漏れた候補者との間に、業績上どれだけの差があるのかは知らないが、受賞者に対しては世の扱いがまるで違ってしまうのが常である。

それでもスポーツや学問的業績の場合は本人の実力で順位が決められるのが建前だが、そうでない場合もある。例えば美術工芸品が商品として売買される時は、価格は作品の質の高さだけによって定まるのではなく、誰の作か、誰が使ったかということが大いにものをいう。歴史上の有名人が作ったとか、使ったという由緒来歴があれば工芸品の「価値」は急増する。

そもそも価値とは何かと問えば、大変複雑なことになる。まずは質の良さ(優劣)のことである。商品の価値はそれを作るために投入された(平均的)労働の量で決まるというのはいわゆる労働価値説だが、これは質を量に還元して計測可能にしたものである。商品の価格にはさらにその時々の需要や効用の大小も関係するが、これらも同様に計測可能な量である。

もし文化的作品の価値が、幾らの値段でどれだけの数が売れるか、というような"量"ではなく、質の高さだけで決めるなら、それを判定できる人はごくごく少数であるのが普通である。生きている時には評価されなくても、死後になって作品に「価値」が出て高額で取引される絵画があるゆえんである。

美術や文学や音楽のような文化的業績は「目利き」の評価が大いにものをいう。「目利き」の人たちによって、"質"が的確に評価されるかどうかはともかく、世の評価はそこから始まるのだから、責任ははなはだ大であるわけだ。

いずれにせよ、世に格付けというものがあることは、目をそらしようのない現実だ。それには知名度や人気が関係しており、先に述べたように史上の有名人が作った、使ったとあれば美術工芸品自体の「格」も上がる。作品の価値が高ければ格付けも高いものだが、逆に高く格付けされた作品が評判になり「価値」が高いとされて重んじられることになる。人気や知名度つまり格によって扱いや影響力に、さらには「価値」評価にまで大差がつくのである。

人間は本当に勝つことが好きで、序列を付けたがる生き物のようだ。人間だけではないといっても、多少度が過ぎている。スポーツや文化的業績だけではない。およそ競争のあるところ勝敗と序列化があり、世は実力より格付けに頼って評価をするという倒錯もありがちなことだ。

ところで、禅に「無位の真人」という言葉がある。無位というのは、真の覚者は序列を超越しているということだろう。そのような覚者とは、目立たずに世の一隅を照らす人のことでもあろう。覚者は競争社会、情報社会の中にいても、本来栄誉や賞とは無関係である。

そうではあるが、本当はこのような人こそ世に対する影響力を持ってほしい。知名度が高くなければ注目もされず尊ばれもしないというのは、世にとって大きな損害で、割り切れない思いがする。宗教界こそ率先して一隅を照らす人を大切にする姿勢を持ち続けてほしいものだ。