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龍馬の原動力は土佐の妙見信仰

2010年4月15日付 中外日報(社説)

一昨年は篤姫。昨年は直江兼続。そして今年は坂本龍馬。NHK大河ドラマが主人公に取り上げた歴史上の人物が、その年の時の人的存在になるという現象が続いている。龍馬の出身地・高知では今、年間を通じて「土佐・龍馬であい博」が開かれ、観光客誘致に懸命である。

ところで幕末に、薩長連合を実現させ、明治維新の動きを方向付けた龍馬の幅広い行動力の源泉は、妙見信仰にあったとの説が浮上している。提唱者は高知県出身の元参議院議員、平野貞夫氏である。

龍馬は数え年十九歳の嘉永六年(一八五三)に、修学のため、初めて江戸へ出た。折しも江戸は、米国のペリー艦隊来航という黒船騒ぎの最中である。その江戸で龍馬は、日本がいつまでも鎖国のカラに閉じこもっていることが許されぬ新時代の到来を感じたことであろう。

翌安政元年、龍馬はいったん土佐(高知県)へ帰った。大きな収穫があった。米国漂流の旅から帰国したジョン万次郎から影響を受け、海外の知識を知ることができたからだ。

土佐藩で、龍馬の生まれた坂本家は、士分より地位の低い郷士だ。登城して藩政改革を進言する資格はない。しかも老臣たちの大部分には、世界の動きが見えていない。若い龍馬は、じれったくてならなかった、と平野氏は推測する。安政三年(一八五六)に、龍馬は再び江戸へ向かう。

二度の出府で龍馬が学んだ場所は、千葉周作が開いた北辰一刀流の千葉道場であった。当時の主は、千葉定吉だ。「北辰」とは北極星または北斗七星で、妙見信仰の象徴とされる。龍馬はここで「免許皆伝」の剣術だけでなく、妙見信仰への目を開いた。

妙見信仰は複雑な背景を持ち、中国の道教が仏教や日本の神道と習合した思想との見方があるようだ。日本仏教では法華思想(日蓮宗)や密教(真言宗・天台宗)との結び付きが強いという。国家鎮護、除災招福の教えである。

しかも元来、土佐にはこの教えが根付いていた。妙見堂を祀る日蓮宗や真言宗の寺院が多いばかりか、独立した妙見社が百四十ヵ所あったという。また、龍馬の生家に近い潮江(うしおえ)天満宮は"星信仰の神社"でもあった。黒潮の流れに乗って妙見思想が土佐に広まり、龍馬"にも伝わっていたのではないか。

その土佐で生まれ育った龍馬が千葉道場で学んだ。北辰一刀流を通じて、妙見信仰を深めたことは疑いない。龍馬に思いを寄せる千葉家の娘・佐那が、一族以外に伝えてはならない「妙見法力」の秘伝を龍馬に漏らしたとの説もある。その信仰により国家鎮護を実現する道は、開国と大政奉還しかないと龍馬は考えた。これが平野説である。

龍馬の江戸滞在は足かけで前後五年に及んだ。帰国した龍馬は、西洋砲術を学び、土佐勤王党に参加するなどしたが、文久二年(一八六二)には開明派の重臣・吉田東洋が暗殺され、藩論は保守派に掌握される。龍馬から見て「藩」という存在は、日本国全体にとって「百害あって一利なし」だ。藩の束縛を断ち切るには、脱藩するしかない。龍馬は四国山脈を越えて土佐を後にした。

平野氏は先ごろ、こうした龍馬論を『坂本龍馬の10人の女と謎の信仰』=幻冬舎新書=として出版した。「10人の女」という言葉は艶ネタめいているが、例えば継母の伊与。実母に死別した幼い龍馬に、自立の精神を植え付けた。三番目の姉・乙女。寺子屋で落ちこぼれた龍馬に文字を教え、剣術の手ほどきをする。伏見・寺田屋の養女・お龍。刺客の来襲を急報して龍馬の命を救う、など。佐那についての記述もあり、「龍馬伝」のテレビで見た場面を連想させられる。

龍馬と共に幕末の歴史を動かした女性が多かったことを再認識したい。