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社会性重視の教育を

2010年6月8日付 中外日報(社説)

鳴り物入りで導入された「ゆとり教育」だったが、学力が低下したので方針見直しだという。またぞろ教育改革である。小学校の教科書は平均で、二十五ページ増となるらしい。しかし、それにしても、学校週五日制はそのままだというから、教育の現場は困るだろう。

わが国の農政もそうだけれど、教育方針がとにかく猫の目のようにコロコロ変わる。などといえば、猫はきっと、――吾輩のは明暗に従って変化するので、明確な根拠がある。一緒にしないでもらいたい、というに違いない。

こうした国の教育方針を一定の方向に導いているのは、いわゆる審議会での教育のプロや教育行政のプロたちの議論だ。彼らは、それでメシを食っているからプロに違いなかろうが、どうも本当の識者は、カヤの外にいるのではあるまいか。

例えば、グローバル化の下いっそう英語力の向上が求められており、来年度からすべての小学校で英語教育が導入される。しかし果たして、それで問題は解決するのだろうか。

教育で最も重要なものは、とただされた一子の母親でもある高名な数学者はかつて、ずばり国語だと言い切って、インタビュアーを驚かせた。数学といっても言葉で考えるのですからね――とその理由を述べた。

日本語はとかく論理的思考に適さないといわれるが、違うのだ。先ごろ逝去した日本を代表する免疫学者もまた、教育の根幹は「読み書きそろばん」だという考えだった。こうした意見は、国の教育方針を議論する場には反映されない。

しかし、後者は国際免疫学会連合会長をも務めた人で、「概念を示して話すのがうまかった。米国で講演しても超満員」だったという(朝日新聞・追悼記事、平成二十二年四月二十七日付)。

そういうのは突出した才能だ、といってしまえばそれまでだ。しかし思うに、昨今の稚拙・拙速な教育改革とそれに伴う教育状況は、むしろそういう才能の芽を摘み取っているのではないか。

教育ということでは、低学年の児童に社会性をきっちりと仕込んでもらいたい。人はさまざまな人間関係の中で生きるのだから、社会性を身に付けさせる教育は大事であるが、尊重されるのは個性や自主性ばかりだ。

この結果、小学校低学年での学級崩壊を招き、公共施設における傍若無人の振る舞いを出現させている。これらの関連は火を見るよりも明らかで、また、それを指摘する識者もいるのだが、状況は一向に改善されない。

稚拙な改革を拙速に進め、こうした人間教育の根幹にかかわる事柄については、なぜかあまりにも鈍重なのだ。ここにあらためて、幼児教育における社会性の重要さを強く指摘しておきたい。

ところで、その公共性・社会性だが、修学旅行シーズンでもあるので、もう一つ付け加える。それは、集合などによる駅コンコース中央の占有についてである。

筆者は出張の折、京都駅の新幹線コンコースによく足を運ぶが、この節、修学旅行の一群がコンコースのど真ん中に居坐って、一般客のスムーズな往来を妨げているのをしばしば見掛ける。

一時的な占有とはいえ、公共の場である。他者の通行に支障のないよう、引率の先生たちは配慮すべきではないか。そういう他者への心遣いもまた、教育の根幹である。

若者の傍若無人がとかく問題になるが、これでは、傍若無人の教育をしているようなものだ。宗教団体が経営母体になっている学校の修学旅行では当然、公共の場への配慮がなされていると信じたいが、もし、かかる傍若無人が平然と行なわれているのであれば、学校関係者の猛省を促すほかない。

いずれにせよ、あらゆる機会をとらえて、「人と共に生きる社会」という人間の土台を生徒に伝えてもらいたいものである。