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異文化への無理解 映画「ザ・コーヴ」

2010年7月10日付 中外日報(社説)

紀伊半島でのイルカ漁を「告発」して反響を呼んでいる米映画「ザ・コーヴ」が一般公開された。一部団体の「抗議」により各地で上映中止が相次いだことも問題になった作品だ。

厳重な警備の中で鑑賞したが、出来の悪いスパイアクション映画を見せられているようだった。

製作関係者はインタビューに「決して日本バッシングではない」と言っているが、漁民を「悪事で稼いでいる」と決め付け、入江がイルカの血で染まるシーンで「残虐」をことさらに強調するなど、フレームアップと思わざるを得ない。

ことに、そのような「理解しにくい日本人たち」の「不可解さ」を想起させるのに、寺や神社という表象が筋書きと無関係に使われている点は、宗教者には見過ごせないのではないか。

長年、映画芸術に接して来た者として「またか」と感じるのは、元々米映画には、硬直したステレオタイプの「勧『善』懲『悪』」の伝統がうかがえるからだ。

戦前からの西部劇ではアメリカ先住民、戦争映画でのドイツ軍、五〇年代以降は「東側のスパイ」。冷戦が終結すると、「宇宙人」や「ゾンビ」がそれに取って代わり、「9・11」同時テロ以降は、「訳の分からない異教のテロリスト」が現われる。

常に、「残虐非道」の「極悪人」を「正義の味方」が問答無用でやっつけ、場合によっては抹殺する、というパターンで、「コーヴ」でも、噴飯ものの稚拙な演出で「悪人」を仕立て上げる手法は共通している。

軍経験者も交えたイルカ漁告発者たちは、「まるで『オーシャンズ11』みたいだな」とヒーローを気取り、高性能の暗視スコープや大量の隠しカメラでスパイさながらに重装備する。

そんなエネルギーと大金を、なぜ、砂漠を人々の血に染めたアフガンやイラク戦争の告発映画に向けないのか不思議ではある。

ドキュメンタリーには、対象を一方的に攻撃するばかりではなく、表現する側の立場への深い自己省察があって初めて説得力が生まれるものだ。

だが、本作品には、手を替え品を替え「敵」を作ることで自己の「正義」を正当化する、あたかも「悪」がいないと不安になるかのような、「異文化」への無理解、敵視がある。そしてそれは、米国の世界戦略のひな型のようにも見える。

本作品が「長編ドキュメンタリー賞」を受けた先のアカデミー賞で、人類と異星人との融和の物語を通じて暴力的排他主義を批判したのが「反米的」との非難を浴びたキャメロン監督の「アバター」が作品賞を逃し、替わって、イラク戦争での兵士のプロフェッショナル精神を描いたビグロー監督の「ハート・ロッカー」が選ばれたことは象徴的だった。

多様な人種、民族が集まり、多様な価値観が同居する彼の国で、国民の精神を統合し、米市民としてのアイデンティティーを支えるのが、建国以来のピューリタニズム、プロテスタンティズムであるとは、よく知られ、それは立派なことだ。

だが、まるで中世の「十字軍」のようにそれを他の文化圏にまで力で押し付けるなら、多様性とはまったく相いれない。

しかし、である。この「コーヴ」に対して、「アメリカ人も牛を殺すではないか」「バッファローを絶滅に追いやったのは誰だ」、あるいは、IWC(国際捕鯨委員会)の規制をめぐる論議のように、「かつて鯨油のためだけに乱獲したのは欧米だ」といった反論を展開するのは、正当ではあっても、不充分ではないか。

相手と同じ土俵で「イルカ漁、鯨漁は伝統的な食文化だ」と主張するなら、相手の文化にも配慮しなければならないだろうし、もっと根本的には、他の文化・文明は、たとえそれが理解不能なほど異なっていても、まずはその存在は認め、相互批判、相互理解を目指すべきだということだ。

唐時代の南泉普願禅師に「異類中行(異類中に行くべし)」との言葉があり、日本の禅宗にも受け継がれている。これは「異文化」への理解をも意味していると取りたいし、同様の精神がどの宗教にもあるからこそ、国際的な宗教間対話の場でも引用される。

蛇足だが、本作品の「上映自粛」が広がったのは論外であり、逆に「ヒーロー」に祭り上げてしまうだけのことだ。

「表現の自由」は弱者の人権を抑圧したり差別をしないという前提があるが、どんな駄作であってもそれは与えられるべきである。機会を奪うのではなく、内容を正面から批判すればいいことだ。