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科学的自然観と宗教的な「超越」

2010年8月7日付 中外日報(社説)

「神業(かみわざ)」という言葉がある。元来は神道起源だが、現在は特定の宗教の言葉ではなく、一般に用いられる。「神業」とは、とても人間業とは思えない高度で巧みな仕事のことである。だからこの言葉は特に何教のものと限定されない、広く見られる「神」観念を表現している。

すなわち神業のように「神」の関与によって成り立つこととは、一般に超常的、奇跡的な出来事であって、人やものの持ち前の能力から生じたものではない、ということである。

一般に人々は超常的、奇跡的な現象に神の働きを見たといってもよい。これは特にどこの宗教圏ということではなく、古今東西どこでもあった感覚だろう。こうした感覚の「克服」が著しく見られたのは、十八世紀を中心として近代西洋に広まった、いわゆる啓蒙主義においてである。ここで人間は機械として理解され、自然は自然自身に内在する必然的法則に従って生成・経過するものとされた。従って啓蒙主義時代には「無神論」が流行思想となった。

あまりにも平板な啓蒙主義に対抗して十九世紀にはいわゆるロマン主義が台頭し、神秘への感覚が復活するのだが、啓蒙主義はより洗練された形を取って二十世紀の有力な思潮の一つとなった。

それは「世俗化」と呼ばれる。世俗化とは、単に聖なるものへの感覚が失せるということではなく、さらに一般化されたものの考え方であって、「自然を自然から、人間を人間から」理解するということである。つまり、自然と人間を理解するについて「超越」の働きは排除されるのだ。「奇跡」もまた科学的に説明できるということになる。

この考え方は、自然科学においてだけではなく、社会科学においても人文科学においても主流となっていることは、今さら指摘するまでもないだろう。ところでここには、超常的な奇跡が「神業」とされたという暗黙の前提があり、その前提が科学の立場から否定されて、奇跡は科学的に説明可能とされるのである。自然を自然から、人間を人間から理解するとは、そういうことにほかならない。

さてこの意味での世俗化は確かに文化的に重要な役割を果たした。そのことを見損なってはならない。それは何かといえば、迷信の克服であり、世界が悪霊や妖怪の支配下にあるという恐怖の消滅である。これは今では当たり前のことになっているから、われわれはその恩恵を忘れがちである。ただし、それを無視しては近代以前を正しく理解できない。むろん、学問の進歩や啓蒙の意味を否定するいわれは全くない。

ただし宗教には別の考え方があって、それが宗教の本来だということを銘記する必要がある。それは、奇跡ではなく「自然」の中にこそ「超越」の働きを見る、ということだ。

浄土教に「自然法爾」という重要な概念がある。「法が然らしめるゆえに、おのずから然る」ということである。人やもの――ここでは特に人――の本性は超越的・内在的な「法」によって成り立つ、という感覚、むしろ認識である。信心は――我執の克服だから――奇跡といえば確かに奇跡だが、それは「自然」法爾、つまり弥陀の願力によって「おのずから」成り立つことだ、という。

ここには超常的な奇跡に神業を見るというのとは違う認識がある。基督教の場合にしても、イエスに次の言葉がある。「神のはたらきは以下のようなものだ。ある人が種を地に蒔き、夜昼寝たり起きたりしていると、彼が知らないうちに種は発芽して成長する。大地が自然に実を結ぶのである」(マルコ四・二六以下)。イエスは自然と人間の本然の姿に神の働きを見たのである。

生命の発生も人類誕生も奇跡といえば奇跡だが、それは自然に成り立ったことで、科学的に跡付け可能、説明可能である。自然も人間も、外からの「超自然的」な強制や操作によらず長い宇宙の歴史の中で「おのずと」成り立った。

しかしまさしくそこに人間をも自然をも超えた働きを見るということ、それが宗教であって、そのような宗教は科学によって「克服」されることもなく、「世俗化」によって消滅することもないのである。