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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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原爆投下で終わった「戦争」が教えること

2010年8月24日付 中外日報(社説)

その時、筆者は疎開先の家の廊下にいた。中学校は、通学列車が艦載機の目標になる恐れがあるので、夏休みに入る前から休校になっており、家でブリキと電線を使って小さなモーターを作っていたのだ。これは当時少年の間ではやっていたものである。

突然光った。光源のない光、天地が、全空間が、自ら激しく発光したような光だった。驚いて辺りを見回したが、何の変わりもない。呆然としていると、二、三分も経過したころ、今度はものすごい音響が轟き渡った。大地からわき上がるような、津波のような爆発音だった。慌てて家から飛び出して防空壕に逃げ込む人の姿が見えた。しかし光と音の時間差からして爆発はかなり遠方のことだと思われた。それで筆者は逃げ出さなかったのだが、その距離でこれだけの音とは一体何事だろうと不安だった。

午後になると西の空に巨大な雲の峰のような茶色い煙が現われた。煙の峰はどんどん太く高くなり、どこまでも伸びて、とうとう空全体を覆ってしまった。夜になっても星は見えなかった。

長崎市の上空に敵機が新型爆弾を投下し、わが方に若干の損害があったという大本営発表がなされたのは翌日のことだった。長崎市は疎開先の村と直線距離で四〇キロほど離れていた(これは東京都心と鎌倉、京都と西宮ほどの距離である)。それであの光と音と煙なら、損害は明らかに「若干」などというものではなかった。

やがて家を失った多数の被爆者がつてを求めて村に避難してきた。彼らは目立った外傷もないのに、髪の毛が抜け、歯茎から出血して、衰弱して死んでゆくのだった。放射線のせいだと判明したのは終戦後のことである。

原爆投下から一週間ほどたって、日本はポツダム宣言を受諾、無条件降伏をしたが、これは絶対不敗を信じていた少年たちには驚天動地の出来事、ショックだった。九月になって中学校が再開され、登校してみるとすべてが変わっていた。居丈高に生徒を叱咤していた配属将校はしょんぼりと小さくなり、時間割の上ではまだあった教練の時間には匍匐前進の代わりに海岸で遊ばせてくれた。

お国のために一身を捧げて鬼畜米英を撃滅せよと叫んでいた先生は、アメリカをお手本とする民主主義者に変身していた。国粋的な個所を墨で塗りつぶした教科書は、いまや黒白が完全に入れ替わったことを見事に象徴していた。体格も血色もいい米兵がジープに乗って村に現われると、小学生たちが群がって手を差し伸べ、煙草やチューインガムやチョコレートをねだるのであった。

悔し涙に暮れる人がいた。しかし横暴な軍部の支配から解放されて、戦争に負けてよかったと心から思った人も多かったに違いない。他方、何も原爆まで使わなくてもという気持は深く鬱積していた。

全体としては、軽薄なほど明るい空気が満ちていたのは否定し難い。思いがけず手に入った自由と民主主義の前に「封建的」と見えるすべては汚れ物のように捨てられていった。文化国家を建設しようという掛け声に人々は希望を見いだしたのである。

しかし結局、進路は見えていなかったのだ。「一億総懺悔」をして、国家主義者から民主主義者に転向すればそれで済むというものではないだろう。満州事変に始まり、中国侵攻、真珠湾攻撃を経て、アメリカ空軍による大都市無差別爆撃と原爆投下によって終わった戦争の経緯が明らかになればなるほど、重い問題が立ち現われる。

それは政治や経済上の争いを、さらに体制や文明・文化の違いから起こるあつれきを戦争で解決しようとした人間、そのようなあつれきを起こし地球的な危機を招き続けている人間の愚かさ、罪の深さと重さということである。

戦後日本の繁栄は真の問題の所在を隠してきたのではないか。戦勝国アメリカにおいても、というより現代世界そのものに、こうした問題があることが最近ますます明らかになりつつあるように見える。彼我の宗教者がそこにおいてなし得たかもしれないこと、実際にはなし得なかったことの意味も……。