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現代ユダヤ教徒と食物に関する禁忌

2010年9月11日付 中外日報(社説)

友人にユダヤ人がいる。外国で知り合ったのだが、当然ユダヤ教徒である。アメリカの大学で比較民法学を講じていて、東京の大学で一年間講義したことがあり、その折、よく会っていろいろな話をした。

アメリカではユダヤ人が一大勢力であることはよく知られているが、現在ではユダヤ教は、一部の人は別として、宗教として生きているというよりは生活様式、特に食物に関するタブーを守ることであるらしい。掟の順守はユダヤ人=ユダヤ教徒であることの証しであり、ユダヤ民族の連帯性のしるしとして大切にされている。

一緒に食事をする場合はタブーに気を使う。イスラム教徒と同様、豚肉は禁忌であり、牛肉もユダヤ教の儀式にのっとって処理されたもの以外は禁忌だから、外国ではうっかり口にできないという。魚は食べてもよいのだが、体がうろこで覆われ、かつ、ひれがあるものしか許されない。

彼は日本食が好きでビールも酒もたしなむからよく食べに行ったが、刺身の盛り合わせが出ると、タイやヒラメなどは彼のもの、イカやエビや貝のたぐいは筆者の分になる。焼き魚などについては、これはOK、これはダメと当方が判定する。もっとも招待された場合には、先方に失礼になるから、出されたものは何を食べてもいいことになっているそうだ。

旧約聖書には、子羊の肉をその母の乳で煮てはならないという規定があり、解釈によっては牛肉の場合も同様に考えられるようだ。あるユダヤ人の家で冷蔵庫のミルクがこぼれて牛肉にかかった。この牛肉を食べてよいかどうかということで論争になったことがあるという。結局食べてもよいことになったということだが、われわれには奇異に感じられても、ユダヤ教徒にとっては聖なる掟にかかわることで、おろそかにはできないのである。

ただし厳格派と一般のユダヤ教徒では厳しさにかなりの差がある。友人は厳格派ではないが、誰も見ていない外国でもきちんと掟を守っていた。日本に来て温泉が好きになり、特にひなびた温泉が好きで、ガイドブックで良さそうな所を見付けては、申し込みをしてくれと頼む。それで温泉側に電話することになるが、詳しい説明は面倒だから、いつも本人は厳格な菜食主義者だからよろしくと言うことにしていた。

友人はおおらかで楽しい人物だから、付き合っていて不愉快な思いをさせられたことはない。いろいろなことを教えてもらって有益だった。ところで彼がアメリカに帰国して再度来日した時会ったところ、食物のタブーはやめたという。

びっくりしてなぜだと尋ねたら、タブーがあると非ユダヤ教徒と一緒に食事しにくいから、コミュニケーションに障害が生じるのだという。これは正解であろう。もともと掟は個人の安全と健全な社会生活(つまり円満なコミュニケーション)のためのものであるのだから。

アメリカでは仏教と基督教の対話が学問的・実践的なレベルでなされ、「仏教的キリスト者」という人たちが現われている。簡単にいうと、坐禅に励むと聖書がよく分かるようになるということである。ヨーロッパでも少なくないようだ。

それに反して基督教徒とユダヤ教徒との間では、イエスが「ユダヤ教徒」によって死に追いやられたり、初期には基督教徒がユダヤ教徒に迫害されたり、中世以降はその逆になったりして、さまざまな歴史的因縁があり過ぎるから、アメリカでもヨーロッパでも、古代に関する研究の交換はあっても宗教間対話には至っていない。

しかし、特にアメリカでは――当然のことながら――基督教徒とユダヤ教徒の間には親しい付き合いがあり、それはユダヤ教徒が基督教に改宗するとか、あるいはその逆によってではなく、また対話と相互理解によってでもなく、むしろ双方とも脱宗教化された次元でコミュニケーションが成り立っているらしいが、甚だ注目すべき現象ではある。