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二振りの剣の意味

2010年11月13日付 中外日報(社説)

明治時代に東大寺の大仏の足元から発見され、国宝の指定を受けている二振りの剣。この二振りの剣が、天平勝宝八年(七五六)に光明皇后によって大仏に献納された品物の目録である「国家珍宝帳」に記載されていながら、その後、正倉院から持ち出されて行方が分からなくなっていたものであることが判明したというニュースが、テレビや新聞をにぎわせたのは十月下旬のことである。

それによると、X線撮影によって二振りの剣のそれぞれに「陽剣」「陰剣」の文字が象嵌(ぞうがん)されていることが明らかとなり、「国家珍宝帳」に「陽宝剣一口」「陰宝剣一口」とあるのと一致したのだという。

これらの剣が「陽剣」「陰剣」と呼ばれているように、二振り一対のものであることは疑いがない。ところで、二振り一対の剣といえばすぐに思い浮かぶのは「干将(かんしょう)」と「莫邪(ばくや)」のことだ。

後漢の趙曄(ちょうよう)の『呉越春秋』に、呉の刀匠の干将が二振りの剣を鋳作し、陽剣を自分の名にちなんで干将、陰剣を妻の名にちなんで莫邪と名付け、陽剣の干将は匿した上、陰剣の莫邪だけを呉王闔閭(こうりょ)に献上したとある。そして東晋の干宝(かんぽう)の『捜神記』などでは、干将が鋳作したのは呉王のためではなく楚王のためであったとし、また陽剣を雄剣、陰剣を雌剣と呼んで、次のような話に膨らまされている。

すなわち、干将が雄剣を匿したことを知った楚王は干将を殺害するが、干将の遺腹の子の赤比(せきひ)は、やがて成人すると母親の莫邪からそのことを聞かされ、復讐を果たしたというのである。魯迅の『故事新編』に収められた「鋳剣」はその話の翻案であって、読まれた方もきっと多いことであろう。

二振りの剣としてさらにまた思い浮かぶのは、『晋書』などが伝える西晋の張華(ちょうか)に関する話である。

ある時、占星術にたけた雷煥(らいかん)が、天界の星宿の斗宿と牛宿の域にとても異常な"気"が認められると張華に語った。張華が「いかなる祥(しるし)なのか」と尋ねると、「宝剣の精が天に届いたのです」との答え。張華は「若い時、人相見が予言したことに、わしは六十歳を過ぎて大官の三公の位に登り、きっと宝剣を腰に佩びるであろうと。その言葉通りとなるであろうか」と言い、その宝剣は予章豊城(江西省豊城)に存在するとのことなので、雷煥を豊城の県令に補任した。

やがて赴任先で獄舎の基礎を四丈ばかり掘り進んだ所から発見された石函の中に、果たして「龍泉」と「太阿」の銘のある二振りの剣が納められていた。そしてその夜、斗牛の星宿の気は消滅した。

雷煥が南昌(江西省南昌)の西山の土で剣を拭うと光芒を発し、盆に水を張ってその上に置くと一層のこと目にもまばゆい。雷煥は龍泉の一剣を張華のもとに送り、太阿の一剣は手元にとどめた。

張華は龍泉と太阿の二剣を干将と莫邪に例えて、「詳らかに剣文(剣の銘文)を観るに乃ち干将なり。莫邪は何ぞ復(ま)た至らずや。然りと雖も、天の生ぜし神物、終(つい)に当(まさ)に合すべし」との書簡を与えたが、やがて政争の犠牲となって誅殺され、雷煥も亡くなると、太阿の剣は息子の雷華に伝えられた。

雷華が太阿の剣を佩びて渡し場の延平津に差し掛かった時、突然、剣は腰から躍り出て水中に没した。水にもぐって探させたものの、ただ二匹の龍の姿が見えるだけ、たちまちにして光彩が水面を照らし、波浪が沸き立ち、剣の行方は分からなくなった。張華が「天の生ぜし神物、終に当に合すべし」と述べたように、太阿の剣は龍泉の剣のもとへと飛び去って一対となったのである。

干将と莫邪にしても、龍泉と太阿にしても、それらは陽剣と陰剣、あるいは雄剣と雌剣と呼ばれているように、そもそも二振り一対のものであり、とりわけ干将と莫邪の場合には夫婦の象徴であった。それにまた剣に肉体を託して登仙し、永遠の生を得るのだという尸解仙(しかいせん)なる考えもある。

東大寺の大仏の足元に二振りの剣が埋められていたことについて、ある専門家は光明皇后が聖武天皇を供養するためであったろうと語っているが、二振りの剣には皇后のさまざまの思いが込められていたのに違いない。