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択一的二元論を超え洞察と熟議、決断を

2011年1月8日付 中外日報(社説)

未来を展望する新たな年が明けた。われわれはいかなる道を選択すべきか。

唐突だが、「フェイブル」というゲームソフトが昨年から大ヒットしている。インターネット検索でも二十一万件以上該当する人気シリーズだ。

英国のカリスマゲーム作家の設計で、架空の国でいろんな人々とさまざまにかかわり、敵とは剣と魔法を使って戦い、王になるという人生ロールプレーイング。「善か悪か」の行動の結果によって、状況も主人公である自分の姿もどんどん変わり、人間性があぶり出される、という評判だ。

善悪といえば、「ハーバード白熱教室」で知られる政治哲学者マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』もベストセラーになった。

来日講義も大盛況で、「漂流ボートで生き延びるための殺人は許されるか」「現在の米国人は原爆投下の責任を謝罪すべきか」といった設問から「正義」を論じるが、究極は「瀕死の危機の際、他国民か自国民のどちらを救うか」、あるいは「暴走する路面電車の前で、五人か一人かのどちらを助けるか」などという設定だ。

しかし、これを単なる二者択一と取るのは誤りだ。サンデル教授自身は確固たる論理的主張を持っており、この設定はあくまで熟慮し、論議するための契機だ。

単純な「二項対立」的な発想には問題がある。二者択一、つまり一方を捨象し見捨てるのではなく、例えばそのような「危機」の背景を探り、それが切迫しない方途をまず考察することが、大事ではないか。

現実に当てはめてもこれは「決定からの逃げ」の空論ではない。「中国・アジアか米国か」「景気か財政か」「TPP(環太平洋経済連携協定)加入か否か」「高福祉か増税か」などなど、新年を迎え、政治の面でも選択、決定すべきことは山積する。

しかし、一見分かりやすい択一の前に困難な「熟議」が省かれれば、例えば「劇場化」や「数値化」で演出された、人々が飛び付きやすい「政策」だけが売れる、政治のファストフード・コンビニ化、言い換えれば有権者の消費者化にもつながりかねない。

二者択一、あるいは、選択肢を限って選ぶことを迫られる場合、その中にはまず答えはない、という格言もある。

身近なところでも同様だ。今の暮らしが幸せか不幸か、この行ないは正か邪か、何事もそんなに簡単には割り切れない。宗教者が最もかかわるべき「いのち」の問題はなおさらだ。

択一的二元論を根底に置く科学的合理主義・現代医学では、「生」と「死」は断絶、対立する。バイタルサイン、つまり脈拍など医療技術上の「生存」の指標数値が「ゼロ」になれば「死」、つまりもう「人間」ではない。そこには、その人の生前から遺族へと引き継がれる「物語」としての「いのち」が生きる余地はない。

ましてや、「いのち」を役に立つか、立たないかで選択することなどはナンセンスだ。臓器移植を前提にした脳死、終末期医療や生殖医療での生命倫理問題、そして、激変が言われる葬送の意義の問題も、根幹の一つはここにある。

冒頭のゲームの発想は、「ワン・ゼロ」の二進法で動くコンピューターのデジタル性とフラクタルな関係になっているのではないかとも見える。研究者によると人間の脳は、ネットを使用すると物事を解決したり決定する前頭前野が活発化するが、それによって、じっくり思考するなど集中を持続する必要がある機能が阻害されるそうだ。

善悪二元論を一神教的な発想とする主張がある。確かに、西洋諸国ではそのような文化的土壌はあるし、国際問題でも二項対立から来る「勧善懲悪」的、独善的政策が国家間に緊張を生じたりもする。

また一方、わが国の伝統宗教、とりわけ仏教では、すべてのものは絶対ではなく変化し、相互に関係している、という「無常」「縁起」の深淵なものの見方、考え方がある。「善」も、「悪」もまた相対的なものだという教えは示唆に富んでいる。

ただし、「日本古来の信仰は寛大で一神教は排他的」などという単純な二元論からも、宗教者は自由になるべきであろう。求められるのは、かのような深淵な思考によって、状況を見据え、論議する機会を広げ、そして決断すべき時には決断し行動することだ。