ニュース画像
北山十八間戸の法要には100人以上の参列者が詰め掛けた
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

反省点を残した震災義援金配分

2011年1月25日付 中外日報(社説)

阪神・淡路大震災の義援金受け付けが一月末で正式に打ち切られる。平成十一年に募集はいったん停止されたが、以後も少数の寄付が続いた。筆者は震災後二年間、義援金募集委員会にかかわりを持ったが、空前の額の浄財だったのに個々の被災者にわずかな金額しか配分できなかった苦い記憶がよみがえった。将来の大規模災害に向け、配分方法などに衆知を集めておく必要性を改めて痛感する。

災害の規模が大きいほど被災者の生活復興は遅れる。震災の教訓の一つがそれだ。近未来に予測される日本近海が震源域の超巨大地震ではどうなるか想像もつかない。国は今年から対策を本格化すると聞くが、いわゆる「災害弱者」にも配慮した復興を本気に考えているだろうか。

歴史を振り返ると、先人たちは早くから周期的に起こる超巨大地震への備えを怠ってはならぬと警告している。一例が幕末の安政元年(一八五四)十一月、安政東海・南海地震の大坂(当時)市街の被害を克明に記した石碑「大地震両川口津浪記」。地震と津波の怖さと教訓を今に伝える貴重な記録である。

石碑は大阪市浪速区の大正橋東詰めにあり、震災の翌年の安政二年に建立された。碑面に東海地震と、直後に連動して起きた南海地震の状況がびっしりと刻まれている。

「(東海地震の)翌日再び大地震が起こり、家々は崩れ落ち火災が発生し、恐ろしい様子がおさまった日暮れごろ雷のような音と共に一斉に津波が押し寄せてきた。安治川はもちろん木津川の河口まで山のような大波が立ち、大小の船が逆流して多数の人々が犠牲になった。宝永四年(一七〇七)の大地震(東海、東南海、南海地震の同時発生)の時も津波で水死した人が多かったが、伝え聞く人がほとんどなく、またも多くの人が犠牲になった。今後も起こると思われるのでここに記録する。碑文が読みやすいよう墨を入れ伝えよ」(要旨)。そんな内容である。

安政南海地震はかつて小学校の教科書に登場し、今春一部の教科書で復活する「稲むらの火」の物語でも知られる。東海地震と合わせ、全国で死者約三万人とも推定され、大坂では三百五十人が津波の犠牲になったという。宝永地震はさらにひどかったと想定される。石碑の今日的な意味をいま一度、かみしめておかねばならない。

震災義援金に戻ると、総額千七百九十三億円に上ったが、死者六千四百三十四人、全半壊・全焼計約二十六万棟と被災者が膨大で、一世帯配分額は、例えば住宅再建では最高でも三十万円にしかならなかった。平成五年の北海道南西沖地震で奥尻島への義援金が約百九十億円、一世帯一千万円以上配分されたことがよく引き合いに出された。

募集委員会は被災自治体や赤十字、マスメディア関係者ら約三十人で構成、募金額が一定額に達するたびに再三会議が招集され、赤十字の主導で配分の対象や金額を協議した。予期せぬ大災害で義援金受け入れ側の不慣れもあり、当初はさまざまな混乱があったことは否めない。

会議で示された配分の原則は「全被災者に平等にできるだけ早く届ける」こと。会議を重ねるうち「災害弱者」の生活再建の遅れが見え始め、筆者は「重点配分すべきだ」と強く求めたが、神戸市などから「実務的に不可能」と拒絶されたことを覚えている。被災者から「会議の内容は公平なのか」と詰問されたこともあった。

今思えば、人々の善意のこもった浄財だけに最も必要とする被災者に手厚く行き届くための工夫が必要だった。また多くの被災者の参加を求めるべきだった、など数々の後悔が残る。

「そもそも大規模災害の救援を義援金に依存するのは無理」「政府など公的機関の責任を薄める」。そんな意見もよく聞かされた。だが、災害の痛みを分かち合い、慈悲心豊かな社会を築くためにも積極的に活用を図るべきだと思う。忍び寄る超巨大地震を前に熟議しておくことが望まれる。