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侯外廬氏追想

2011年1月27日付 中外日報(社説)

最近、読書した林田愼之助氏の『六朝の文学 覚書』(創文社、二〇一〇年七月刊)。「『世説新語』の清議と清談」と題された第十章に、二世紀の中国後漢時代の名士であった郭泰が郷里に帰る際、やはり名士の李膺と二人して同じ舟で黄河を渡ったところ、それを見た人々がまるで「神仙」のようだと思ったという話を引いた上、次のように述べられている。

「これは『後漢書』郭太(泰)伝の記事であるが、見送りにきた知識人たちが、二人の姿を聖人とみずに、神仙にみたてたところに、侯外廬の『中国思想通史』は思想史上の大きな変化を読みとっている」

侯外廬(ホウ・ワイルー)氏の『中国思想通史』全四巻はかつて通読したことがあるが、当該の文章は記憶にない。久しぶりに書架から取り出してページを繰ってみると、「両漢思想」と副題された第二巻(人民出版社、一九五七年四月刊)の第十章「漢末統治階級の内訌と清議思想」にその文章は見いだされた。

ただし侯氏の論述は林田氏の紹介の以上でもなく以下でもなく、郭泰と李膺の二人が神仙に見立てられたことが思想史上の大きな変化を意味することについての詳しい説明はない。

忖度するならば、二人が神仙に見立てられたことに、儒教一辺倒であった漢代とは異なって、道教の神々である神仙を理想とする新たな時代の胎動が認められるとするのであろうか。漢代に続く三世紀以後の魏晋の時代ともなると、神仙に見立てることは第一級の形容としてかなり普遍化したようであって、魏晋時代の名士の逸話集である『世説新語』に「神仙中の人(神仙世界の人間)」という評語が次の二条に見える。

――王右軍(おうゆうぐん)は杜弘治(とこうち)に会ってこう感嘆した。「顔は凝脂(ぎょうし)のよう、眼はぽっちりと漆を点じたようだ。これは神仙中の人だ」(容止篇)

王右軍は書聖と称される王羲之。杜弘治は美男として知られた杜乂(とがい)。凝脂とは真っ白に固まった脂肪。白楽天の「長恨歌」にも、楊貴妃のなまめかしい肌の美しさが「温泉の水は滑かにして凝脂に洗(そそ)ぐ」とうたわれている。

――孟昶(もうちょう)は……王恭(おうきょう)が高い輿(こし)に乗り、鶴の羽で織ったマントを被(はお)っているのを見かけたことがあった。その時、粉雪がちらつき、昶は籬(まがき)の隙間から垣間見て、「これぞまがうことなき神仙中の人だ」と感嘆した。(企羨篇)

それはそれとして、侯外廬氏の名は懐かしい。前世紀の著名な学者であった侯外廬氏(一九〇三-一九八七)を懐かしいというのもおこがましいが、昭和三十八年に十人からなる中国学術代表団の一員として来日された氏の京都における講演会や討論会に参加した記憶がよみがえるからだ。記録によると、当時の氏の肩書は中国科学院歴史研究所副所長。

それはまだ日中の国交が回復される以前のことであって、今日ではおよそ想像もつかないけれども、中国から高名の先生方を迎える準備は並大抵のことではなかった。大学院の学生であった筆者もいくらかの下働きを仰せつかり、一行が滞在されたホテルの張番を務めたこともある。

青二才であった筆者には一対一で話を伺うことなど望むべくもなかったが、侯外廬氏の人柄は、それに先立つこと三年の昭和三十五年に訪中された島田虔次先生の「中国見聞記」(『東洋史研究』十九巻四号)に次のように叙されている。

「長身、面長、無、顔色はあまりよいとは言えない。どちらかというと寡黙なほうであるが、必ずしもとっつきにくい感じではない。周囲の人からも侯老侯老と親愛せられているように見うけられる」

中国思想史の大家であった島田先生も道山に帰されてすでに久しい。侯外廬氏の『中国思想通史』を評して、「比擬するのはおかしいが、さしずめわが国の学士院賞にも値する名著だ」と島田先生が言われたことがあったのも、懐かしく思い出される。