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古籍に秘められた歴史と数奇な運命

2011年2月5日付 中外日報(社説)

京都国立博物館で開催されている「筆墨精神―中国書画の世界―」展に足を運んだ。そもそも上野理一氏の収集にかかり、昭和三十五年に理一氏の子息の精一氏から京博に寄贈された上野コレクションを主体とする展示である。

『三国志』呉書の五世紀写本、十二世紀南宋の大学者である朱熹(しゅき)自筆の『論語集註』草稿、宋拓の法帖である王羲之の「十七帖」等々、優品ぞろいだが、中でも筆者が見入ったのは李暹(りせん)注『千字文』の鎌倉時代写本であった。

周知のように、『千字文』は「天地玄黄」の四字句に始まって都合千字からなる識字書。六世紀前半の中国江南をおよそ半世紀の長きにわたって統治した梁の武帝が臣下の周興嗣(しゅうこうし)に命じて作らせたものだが、わが国の鎌倉時代の写本が注目されるのは、『千字文』の李暹の注と共にその序が載せられているからである。

黒田彰・後藤昭雄・東野治之・三木雅博氏編著『上野本注千字文注解』(和泉書院)、あるいは東野治之氏著『遣唐使と正倉院』(岩波書店)に収められている「敦煌と日本の『千字文』」によってその存在を知ってはいたものの、写本を実見するのは初めてであった。

目を凝らしてみても、定かならぬ視力では李暹序のすべての文字を確認することはおぼつかない。帰宅後に展示図録とにらめっこをしてみたところ、幸いにもカラー図版は鮮明、次のように述べられていることを確認することができた。

前掲の両書にすでに釈文あるいは訓読訳が載せられてはいるものの、従いかねるところが少なくないので、筆者なりの訓読と解釈を示す。

――昔、東朝の武定年内、秘書郎中に任ぜられしも、王事は●(もろ)きこと靡(な)く、寧居するに暇(いとま)あらず、楚城に奉使し、辺蛮を慰撫す。路、潁川(えいせん)に次(やど)るや、大司徒侯景(こうけい)の兵を称(あ)げて乱を作(な)すに遇い、遂に之れが為に維■(いちゅう)せらる。梁に奔(はし)らんとするも得可からず、業(▲)に還らんとするも路無し。歳の大火に在る、逼られて関に入り、遂に西京に在ること、卅余年を経たり。

武定は、華北を支配していた北魏王朝が六世紀前半の末に東魏と西魏に分裂したうちの東魏の年号(五四三-五五〇)。「王事は●きこと靡し」は『詩経』の言葉であって、王様から仰せつかる仕事は休む暇がないほどに忙しいとの意味。つまり、李暹は東魏の中央政府で秘書郎中の職を務めていたものの、辺境地帯の化外の蛮族を慰撫すべく、楚城(安徽省阜陽市)に使者として赴けとの王命を仰せつかったのである。

だが潁川(河南省許昌市)までやって来たところで、突如として侯景の乱が勃発して身柄を拘束され、江南の梁王朝に亡命しようにもそのすべはなく、東魏の都の▲(河北省臨◆県の西南)に戻ろうにも道は途絶し、かくして関中の西京すなわち西魏の都の長安に強制連行され、それからすでに三十余年が経過したというのである。

侯景は東魏の武将。そして李暹がそもそも長安に強制連行された「歳は大火に在る」年とは、歳星すなわち十二年周期で天を一周する木星が大火の位置に宿る年のことであって、『晋書』天文志に「★の五度自(よ)り尾の九度に至るを大火と為し、辰に於いては卯に在り」とあるように卯の年のこと。武定五年、西暦五四七年が丁卯(ていぼう)の年に当たり、あたかもこの年の正月丙午(八日)に東魏の実権者の高歓(こうかん)が没すると、その五日後の正月辛亥(十三日)、侯景は「河南に拠って叛き、魏に帰した」(『資治通鑑』)のであった。ここに魏とあるのは西魏のこと。

西暦五四七年から三十余年が経過したといえば、すでに西魏を継いだ北周王朝も末、間もなく隋王朝によって取って代わられようとする時代であるが、かねて『千字文』を「奇」としていた李暹は、「典模を△□(くんせき)し」、すなわち古典から言葉を拾い集めてそれに注を施したのであった。

このように李暹注『千字文』の序には、六世紀中国の江南において制作された典籍が早くに華北に伝えられ、そして数奇な運命にもてあそばれた人物によって注が施されたという、興味津々たるストーリーが伝えられているのである。

●=監の右上に、午その下に口を足したものに置き換え ■=執の下に糸 ▲=業におおざと

◆=さんずいに章 ★=氏の下に一 △=手偏に君 □=手偏に庶