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ネット社会の光と影 問われるのは内実だ

2011年3月8日付 中外日報(社説)

チュニジアからエジプト、リビアへと広がる政変との関連で、インターネットなどソーシャル・メディアについての論議が盛んだ。ニュージーランド大地震で安否確認に活用されたこと、大学入試問題の掲示板投稿事件を見ても、ネットの功罪を考えさせられる。

著名な評論家の「知的訓練ができていない者が使うのは問題がある」との趣旨のいささか極論的意見に、「ネット世代」を中心に猛反発が起きた極端な例。ネット礼讃への慎重論も、それを「新しいものに常にアレルギーを起こす硬直姿勢」と決め付けて批判する他方の硬直姿勢も含め、検証の必要がある。

「ネット革命」とまで表現される上記の地域の激動は、NHKのドキュメンタリー番組でも民衆と権力側との熾烈な情報戦、地球規模でそれを支える「サイバー戦争」の実態が紹介され、確かに、そのかつてないパワーのすごさを見せつけた。

賛否はあっても「ウィキリークス」の威力や、「ツイッター」「ユーチューブ」などが広範な社会変革の場で果たしているメディアとしての役割は、歴史上、例を見ない規模である。

しかし、当たり前だが独裁政権を倒したのは決してネットではない。それを使い、表現し、そして行動した人々の力だ。抑圧されていた民衆の街頭などでの動きがなく、ネットで情報がやりとりされているだけなら権力は倒れない。

報道されているように、「武器」としてのメディアの力は「両刃の剣」であり、他の諸国でも政権側が通信を遮断したり、逆にネットで世論を操作したり、情報機関が市民の情報サイトに攻撃をしかけたりしているという。

また、一連の「革命」で注目が集まり、映画化もあって創設者が一躍ヒーローにもなった「フェイスブック」には、アメリカの投資銀行のセールスで機関投資家群が株を大量購入して資本参加したとのニュースもあった。機関投資家は、これまで武器産業、軍需産業にも参入してきたのだ。

日本でも、さまざまな社会活動にソーシャル・メディアはほとんど「必須」のものとなってはいるが、ネットなどで呼び掛けて人集めをするカルトや街宣活動して警察が出動する騒ぎになる団体もある。

一方、人々の関係性が絶たれる「絶縁社会」で、市民の「絆」としての役割は特筆すべきものがあり、ネット上のつながりが「新しい公共」とか 「ネット縁」 と見なされたりもする。

テレビの討論番組にツイッターを導入して意見を同時公開することで「国民的議論」になるとの主張や、ネットによる「直接民主主義」を提案する論客もいる。例えばウェブ上で有名な架空キャラクターを「立候補」させてメディアで投票したり、政策ごとに賛否を募れば、「政治家はそれほど要らなくなる」との論だ。

だが現実社会は、ネットで困窮の実態などすべてが見えるほど単純でもなければ、民主主義は数値の多寡だけで施策を決めるようなものでもない。

またバーチャルな関係は、本当の「縁」とは言い難いだろう。現状では、確かに何らかの出会いの契機や支えではあるが、それにとどまるならば、一時の気晴らしや愚痴のはけ口のレベルをなかなか超えられない。

つまるところ、ネットは「普通の市民」が使うことのできる強力な道具、手段であるが、それ以上でも以下でもない。大事なのは使う側の知恵と力量、理念だ。

「そんなことは承知」と言いながら、しかし、パワーのすごさだけを礼讃するなら、担い手の姿勢をあいまいにするという意味で問題だし、道具への過度の拝跪はそれを支配する者の「神格化」を招きかねない。

ネットに限らず新規のメディアは歴史上も目覚ましい役割を果たした。だがそれはメディアが、ではなく、そこで訴えられる内容が素晴らしかったからだ。

中世ヨーロッパの宗教改革にはグーテンベルクの印刷技術が多大な貢献をしはしたが、それは、それまでの教会の腐敗とそれを乗り越えようと闘った人々の行動があればこそだ。

現代でも、宗教やさまざまな公共的活動が社会に何かをアピールする際に重要なのは、手段としてのメディアの種類ではなく、その使い方であり、真に問われるのはそこで訴えかける内実であることは言うまでもない。