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「聖」がみえない現代

2011年3月12日付 中外日報(社説)

近ごろ用いられなくなった言葉に「聖」がある。聖人、聖域などの「聖」である。今の世に聖人はいるのだろうか。あの人は聖人だと言えば何やら皮肉めいているし、聖人と言われれば敬遠されているように響く。だから今の世に聖人と呼ばれたい人、呼ばれて喜ぶ人はいそうもない。

ところで「聖」という漢字は耳、口、(てい)からできているが、耳の穴がよく通って音が聞こえる。転じて神の声がよく聞こえる人の意味だという。「聖者」とは知徳世に優れて慈悲心の厚い人のことである。つまり「聖」とは「ブッダ(覚者)」と同様、元来は人間の属性である。

それに対してラテン語のサンクトゥス、また英語のホーリー、ドイツ語のハイリッヒは、まずは神の属性であって、神は「聖なるもの」とされる。ちなみにルドルフ・オットーの古典的著作『聖なるもの』(一九一七)では「聖なるもの」とは畏怖と渇仰の念を呼び起こすもの、つまり人を遠ざけつつ引き寄せる、底知れぬ力に満ちた不可思議なもののことであった。

従って「聖なるもの」はまず神、それから神にかかわる人間や事物のことであり、だから聖霊、聖母、聖徒、聖域、聖化、聖書、聖日などは――聖日、聖母は天子にかかわる元来の漢語でもあるのだが――基督教用語だという感じがある。

日本語では――神聖という語はあるが――聖は必ずしも神と結び付かない。神と結び付くのはむしろ「おそれ」「おごそか」「きよらか」「きよめ」というような語である。聖という漢語はむしろ優れた、並外れた力に満ちた、ということで、だから楽聖ベートーベンなどという言い方があった。むろん親鸞聖人という呼称があるのだが、宗教者に対しては「上人」という呼称もある。わが国では聖人という言葉からまず連想されるのは、むしろ孔子や孟子のような「聖賢」のことではないだろうか。

他方、「俗」とは、元来は習わし、時代や土地の風習や習俗のことである。しかし悪い意味でも使われ、「俗人」「俗物」とは、金や名誉や権力に明け暮れて風流風雅を解しない人ということで、戦前の教養人がよく軽蔑を込めて使っていた。現在では還俗というような語は見掛けるが、風俗産業などという語の中でやっと生きている。「世俗化」という語があるが、これは聖なるものの領域が失われた現代という意味で、基督教用語からの翻訳である。

ところで聖と俗は反対語である。語というものは一般に区別と対立の中で用いられ、文の主語となる語は、それとして他のものから際立たせられるものでなければならない。あるいは善悪や明暗のような対立の中で初めて意味を持つ。従って、一方の語が用いられなくなれば他方も消滅する。

現代では金や名誉や権力に明け暮れる者も、まっとうな人間と見なされる。それは必ずしも現代人が堕落しているということではなく、現代が何事によらず自由競争を建前とするからである。金や名誉や権力は成功者が手にするもの、つまりは勝者の徴になった。こうして「俗人」はいなくなり、同時に「聖者」は姿を消したわけであろう。

あるいはこうも考えられる。戦後のマスコミは、これはむろん大方の人間の心情を代弁しているのだが、まるで自分たちの上に立つ人間など許容できないとでもいうかのように、およそ優れた者、尊敬される人間を目の敵にしてこき下ろしてきた。政治家、官僚、財界人、学者、医師、また法曹界、宗教界の人間など、ターゲットとなった人は数知れない。中でも政治家はたたかれ方がひどい。政治家は本当に必要なリーダーなのに、高い志を持つ優れた政治家が少ないのは、たたかれ過ぎたせいもあるのではないか。

聖者についても同様である。聖者など所詮は偽善者の仮面にすぎないとして侮蔑無視する風潮がある。しかし、宗教的価値として、「聖」が見失われるようではおしまいだろう。むろん、宗教者は――「忍辱」といって――昔からこのような無理解に耐えてきたのかもしれないが……。