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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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被災地支援を通じ"日常"の見直しを

2011年4月14日付 中外日報(社説)

連日の東日本大震災の報道は、宗教を信じる人、宗教を研究している人の中には、特有の問題意識に駆られている人がいよう。「こんな時、宗教には何ができるのだろうか」という問い掛けである。

筆者の知人の一人は震災1週間後、被災地に水を届けようと、日頃のネットワークを生かしてペットボトル2万本を集め、それをトラックに積み、自ら現地に運ぶ指揮を執った。2万本はむろん無償である。途中で警官に車が止められたが、2時間近く交渉し、自分が責任を取る旨の書類を作成し、現地に行けたという。

こうしたことが可能なのは、彼の日頃のネットワークの広さと、それを生かす実行力である。彼の場合に宗教的理念とか、信仰は特に介在しない。困っている人、とりわけ生死が分かたれるような状況にいる人は助けなければならないという気持だけである。

宗教者となれば、本来苦しみにある人に少しでも助けとなることをしたいというのは、当然の気持のはずである。自ら被災者となった現地の多くの宗教者はまさにそうした活動を実践している。だが、被災地から離れた地域からなし得ることはまだ限られている。

宗教界でも、日頃から災害ボランティアの発想を持ち、準備をしている教団がある。そうした教団では早速実行に移している。また信者から救援金を募るシステムが機能的に作動する教団も一部だが見受けられる。

つまりは平常の心構えということになる。宗教の社会貢献の必要性を訴える声は最近高まっていたのであるが、それは宗教本来の事柄ではないと、いささか冷ややかに見る人もなくはなかった。俗なる価値観から距離を置くことに、宗教の本来の姿を主張する立場も当然ある。

しかし、こうした本当に助けが欲しい人が大勢いる時に、一般の人以下の対応であっていいものだろうか。どうしたらいいのか、どういう手段があるのか。それは日頃から、社会性を養っておかなければ、解決策はにわかに生まれるようなものではない。

震災からの復興、原子力発電所問題への対応に、宗教界が特別な貢献をできなくても仕方がなかろう。それはその専門家に対処を委ね、それを支援していけばいい。

宗教界は、この未曽有ともいうべき災害に直面したことを、自らの日頃の活動のあり方の改善や見直しにつなげていくことこそ、宗教界独自の災害との向かい合いということになるのではないだろうか。