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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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信仰治療と逸脱行為 本質的問題の所在は

2011年10月13日付 中外日報(社説)

熊本県長洲町で8月末、滝行と称される除霊行為によって女子中学生が窒息死する事件があった。佐賀県に本部を持つ教団の支部教会で起こったもので、主管者と少女の父親が逮捕された。

少女をベルトで縛って水を浴びせたので、窒息死に至ったという事件であるが、9月下旬になってテレビや新聞などで報道され、多くの人が知ることとなった。

この事件をカルト問題という視点から議論する向きもあるが、宗教関係者にとっては、宗教行為の境界線に関わる問題として考える方がより重要である。その境界線とは、「修行」として行われる行為の境界線と、医療とは別に行われる信仰治療の許容範囲である。いずれも古くから問題にされてきたことだ。

最初の点について見るなら、手足を縛っての水行であるから、もはや自主的な修行とは呼べない。近所で叫び声を聞いていた人がいるから、当人は恐怖の中に水を浴びせられていたと考えられる。従って、宗教的修行からの逸脱は明らかである。

だが、ここまで極端でなく、本人の心身の不調を心配した親族が滝行を勧めるということであれば、逸脱行為とは言い難い。本人があまり乗り気ではないのに、僧侶や行者などに深く帰依していた親族が強く勧めるとなると、それは境界線に近づいている。

医療と信仰治療に関わる問題はもっと厄介である。明治以来、今日まで信仰治療の扱いは、常に微妙であった。ただし一般的傾向としてみれば、現代医療を拒否するということでないならば、信仰治療にはいくばくかの共感が寄せられてきたと言っていい。お百度参りなどの類は、現代でも好意的に受け止められたりする。

除霊という観念は、民俗信仰においても、新宗教においても、しばしば受け入れられているが、これまた論議を呼ぶ事柄である。1990年代にはテレビがいわゆる霊能者による除霊の場面を放映していた時期もあった。さすがにオウム真理教事件以後は、そうした番組は激減したが、テレビ局がこの点を批判するなら、自分たちの姿勢の自省がまず先となる。

現代医学が認めていないこうした観念や行為が、どこまで許容されるのかについて、一般的な線引きは、非常に困難だ。それゆえ、こうした難しい問題は日頃から考察を重ねておくことが必要だろう。個別の事件の特殊性に目を奪われ、その事件が提起している、より本質的な問題を見過ごさないようにしなくてはならない。