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「うち」の中の倫理 儒教的文化と近代

2011年10月18日付 中外日報(社説)

西欧、特に英国にはデマーケーションということがある。日本語には適当な訳語すらない。一般には作業区分のことだが、個々の従業員についてもこれがある。つまり、従業員の仕事内容は採用時から決まっていて、簡単には変えられないとの了解が会社全体にあるのだという。

日本では、例えば大学教員が大学の都合により本人の意思に反して専門外のことを教えさせられることはまずないが、事務職員の配置転換は普通のことである。会社一般では従業員は会社が命じた仕事をするのが通常で、特定の仕事だけをするという契約で定年まで勤めるのは例外であろう。

デマーケーションは仕事の安定性という点では結構なことだが、経営上問題もあるという。配置転換には強い抵抗があるから、配転を伴うような合理化が難しい。結果として安くてよい製品を作る競争に弱くなるという。だから日本の企業に負けると分かっていても、英国では日本のようなシステムは考えられないのだそうだ。

ところでデマーケーションがないのは日本だけではない。ある経営学者によると、韓国、中国つまり漢字文化圏の特徴なのだそうだ。西欧の人はだから東洋は理解できないというようだが、いったいこれはどういうことか。

一つ考えられるのは儒教文化圏の倫理、というよりは文化である。

儒教の基本は「孝」で、つまり家族倫理だ。家族といってもむろん核家族でも三世代家族でもなく、大家族あるいはむしろ「うち」のことである。孝を基本とする仁や礼は「うち」で妥当することだった。「うち」の中では、むろん一定の分業はあるが、厳密なデマーケーションはない。

日本では大学のような組織でも、「うちの大学では」とか、単に「うちでは」という生え抜きが少なくない。ちなみに筆者にはどうしてもこういう言い方ができなかった。日本ではかつて会社は擬制家族だといわれたものだが、今でもその気風は残っていよう。

戦後儒教は「封建的」「前近代的」だという通念があって、確かにそう言えるところが存在する。しかし、その一方で案外、現代適合的な面もあるのは興味深いことである。

ついでながら国際学会で台湾の学者などの研究発表を聴くと、儒教からくんで近代的なものを再構築しようという温故知新派がいて驚かされることがあるが、これは彼らには当然のことなのかもしれない。