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宗教が育てるべき心の「清さ」の感覚

2011年12月1日付 中外日報(社説)

イエスの言葉に「外から入るものは人を汚さない。人を汚すのは人の中から出るもの、もろもろの悪念だ」というものがある。イエス当時―これは洋の東西を問わず古代には広く見られることだが―ある種の病や死体、血、ある社会層や民族などが汚れ(穢れ)ているという観念があった。さらに汚れに触れると移るという観念があり、市場などに行くと知らないうちに汚れが移っているかもしれないので、家に帰ると体を清めるというような習慣もあった。

ちなみに広く清めに使われたのは水、火、塩、聖なるもののシンボルや聖者の遺品といったものである。このような汚れの観念が性や特定の社会層や民族を差別する原因になったことも多い。イエスはそれに対し、そのようなものは人を汚すものではないと断言したわけである。キリスト教において食物や生活上の禁忌、また汚れの観念に基づく差別が―完全にとはいえないが―失せたのは、イエスの宗教に基づくところが大きい。

ただし感覚自体が失せたのではない。イエスには悪念が人格を汚すという感覚が生きていた。なおイエスの言葉のコメントとして挙げられている悪念とは、殺意、盗み、欺き、貪欲、好色、嫉妬、高慢、愚痴というような、納得のいくものである。

歴史を大局的に見ると、悪は汚れとして「感覚されるもの」というよりは、社会生活への侵害として「知られるもの」になっていく傾向があった。それについては、ソクラテス以来の倫理学が善悪を正しく「知る」方向に向かったことが一つの要因と考えられるだろう。また教育が「これこれは悪いことだ」と理由を挙げて「認識」させてきた事情もある。かつて汚れと「感じられた」伝染病が病原菌によるものだと「分かった」のも、単なる感覚に対する科学的な「知」の勝利である。

しかし、なくしてはならない「汚れ」の感覚があろう。感覚というものは植え付けることはできないが、訓練や環境次第で鋭敏にも鈍感にもなる。もともと感覚は生に備わった基本的な機能である。むろん何かが「悪い」とされる理由を考え、知ることは大切なことだ。しかし悪「念」が人格を、つまり自分を「汚す」という生きた感覚、逆にいえばこころの「清さ」の感覚は、知と同様に大切で、宗教がしっかりと育てなくてはならない事柄ではないか。

一般に現代では「主観的な」感覚を「客観的な」知に変換する趨勢が強い。だが、これは生の貧困化を招いているように思われる。