ニュース画像
御影堂前階段で記念撮影を待つ小僧さんたち。2時間余りの儀式を終えてほっと一息
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

開戦70周年に思う ハンチング入隊

2011年12月3日付 中外日報(社説)

昭和16(1941)年の秋である。広島市のわが家を、ハンチング帽の青年が訪れた。鳥打ち帽とも呼ばれる前ひさし付きの帽子は、戦前は日曜日の外出などに使用された。よく見ると青年は母の弟、つまり叔父だった。高知市で会社勤めをしていた。

「赤紙(召集令状)が来た。あす、広島県福山市に新設された機械化師団に入隊する」と言う。しかし、軍服は着ていないし、家族の付き添いもない。3年前、中国への出征の時は、乗船地の香川県坂出港で、一族が国旗を振って見送ったのに。

極秘の召集だから、見送りは禁止。単身、普段着のまま、指定の時刻に、さりげなく兵営の門を入れと命じられたそうだ。叔父は翌日、午後の列車でただ一人、福山へ向かった。

やがて12月8日の開戦。福山の師団はフィリピンに上陸して米軍と激戦、脚に銃弾を受けた叔父は翌年の春、白衣姿で広島の陸軍病院に送還されて来た。機械化師団のはずが、武器は小銃だけ。戦車も装甲車も無かったとか。

3年後の昭和19年秋、戦局は逆転し、叔父の部隊が占領したフィリピンに、米軍が反攻して来た。そのころわが家を、叔父と同じハンチング姿の中年の男性が訪れた。高知県で漁業をしている母のいとこだった。

遠洋漁業の経験から軍属を命じられ、広島港から機帆船で食料をフィリピンへ運ぶという。大きな輸送船は次々に沈められ、木造の機帆船が動員された。母のいとこは、軍装では目立つので、市街地では普段着で行動せよと指示されたとのことだった。

母のいとこは、広島港へ2度帰って来たが、3度目は帰らなかった。恐らくレイテ島近海に沈んだと思われる。そして翌20年夏、広島市は原爆で壊滅した。国民学校から旧制中学校にかけて、筆者の戦時生活には、ハンチング姿の縁者の思い出が刻まれた。

戦時中、宗教者の姿を見ることが少なかった。若住職は戦線に動員され、残った老僧は国民服姿だった。国民服は軍服に似たカーキ色で、甲・乙の2種類があり、男性はどちらかを着用するよう指示されていた。軍人・軍属が時に普段着で偽装したのに、宗教者は国民服。脚には兵士のようにゲートル(脚絆)を巻いた。法務の際はその上に僧衣を着ける。

今、ハンチング姿のタレントを見ることがある。同じ帽子をかぶった叔父の入隊から70年。ハンチングが再び、戦争のカムフラージュに使われないことを。