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中江兆民と幸徳秋水 爽快な師弟間の関係

2011年12月17日付 中外日報(社説)

読後爽快といえるような書物にはそうめったに巡り合えぬものだ。しかし、幸徳秋水の『兆民先生・兆民先生行状記』(岩波文庫)は、100ページそこそこの短編とはいえ、掛け値なしに読後爽快な書物である。

兆民先生、すなわち中江兆民は言わずと知れた明治時代の民権運動の理論的リーダー。明治憲法の体現するところは上から与えられた「恩賜的民権」に過ぎぬと一蹴し、民権はすべからく民衆自らが下から進んで取るところの「進取的民権」でなければならぬと主張した。

幸徳秋水がそうした兆民の書生となったのは、兆民が保安条例によって東京を逐われ、大阪において『東雲新聞』の主筆を務めていた明治21(1888)年のことである。

兆民が没した明治34(1901)年の翌年に愛弟子の秋水によって書かれたこの書物は、緒言に「描く所何物ぞ。伝記乎、伝記に非ず、評論乎、評論に非ず、弔辞乎、弔辞に非ず。惟だ予が曾て見たる所の先生のみ、予が今見つつある所の先生のみ。予が無限の悲みのみ。予が無窮の恨みのみ」と記されているように、至情にあふれた文章であって、熱血多感の兆民の人となりを描いて余蘊がない。

明治23(1890)年、兆民は第1回衆議院総選挙に大阪から立候補する。そして、当選を果たしたものの、わずか数年にして辞表をたたきつけて代議士を廃業した。その上でさまざまの事業に手を染める。

だが、と言うべきか、それともそれ故にと言うべきか、兆民の生活は「困窮」の2字によってしか表現しようのないものであった。兆民が手を染めた事業はどれもこれも見事に失敗し、秋水はいくらかユーモラスな筆致をもって、その平生の素顔を次のように叙している。

「貧乏益々甚だし、先生食卓(先生令閨児女と常に一台の円卓を囲んで食事せらる)に向つて盞を挙げて笑つて曰く、大饑饉なるかな、明けても暮れても豆腐のからに野菜(ナツパ)の浸物斗りは少しひどしと」

兆民と秋水の師弟の間に通い合う情愛は、羨ましく感じられさえするほどに純粋で一点の曇りもない。読後爽快である何よりの所以である。

幸徳秋水がいわゆる大逆事件によって40歳の命を絶ったのは、兆民没後10年の明治44(1911)年1月24日、今からちょうど100年前のことであった。