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現代の宗教性喪失を予言した瞳がない絵

2012年2月16日付 中外日報(社説)

若くして死んだイタリアの画家アメデオ・モディリアニの評論が先ごろテレビで放映された。モディリアニが描く女性の目に瞳がないのはなぜか、脳科学者と心理学者と美術史家が議論した。実験の結果も披露され、瞳があると鑑賞者の視線は目に集まり、瞳がないと絵全体に分散する傾向があるという。ここから、画家は鑑賞者の視線が絵の全体に行き届くよう配慮したという推測がなされた。

分析や実験が面白かったし、なるほどと納得もできたが、それだけだろうかとも思われる。画竜点睛という言葉があり、選挙で勝つと達磨に瞳を入れる習慣もある。瞳を描くと全体が生きるということだ。逆に画竜点睛を欠くといえば、肝心なものが欠けていて作品が仕上がっていないことになる。

テレビでは修復の専門家がモディリアニの絵の複製に瞳を描き入れてみせた。すると絵が平凡になるのである。それはどういうことか。瞳を入れると平凡になるということは、その方が普通だということである。では瞳がない女性のどこが普通ではないのか。

瞳のない女性は青い目を見開いて凝視しているのだが、対象がない。目を見開いていても実は何も見ていない。鑑賞する側からいうと、女は何も語り掛けてこないのである。俗に目は口ほどに物をいい、というが、彼女は目を見開いてはいても、他者への関心がない。端的にいえばコミュニケーションがない。人格性が欠けているともいえる。

画家の女性像は縦長にデフォルメされていて、線も色彩も印象的に単純化されているが、肉体美を誇示しているわけではなく、むしろ人形じみているから、顔も目の部分が穴になっている仮面のように見えるのである。そこが「普通ではない」のだろう。

筆者には、モディリアニが現代人を先取りして描いたように思われる。超多忙な現代人は大きく目を見開いて、隙あらば「生き馬の目をも抜」こうと構えているが、実は共に生きる人間にはあまり関心がない。人間を見ていない。人格として人格に関心を抱き語り掛けることをしない。

モディリアニの絵については神秘的とか宗教的とかいう評があるそうだが、もしそうなら、それは失われたものを暗示することで、現代の宗教性喪失を訴えているのではないか。例えばモディリアニの絵とミレーの「晩鐘」を並べて見るとよい。モディリアニがあえて描かないもので何を訴えているか、感じられるのではなかろうか。