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ブッダの訳語「仏」はいつ使われ始めたか

2012年3月22日付 中外日報(社説)

『陳垣来往書信集(増訂本)』(三聯書店)に陳垣と胡適との間で交わされた往復書簡合わせて36通が収められている。2人は中国宗教史の分野で多大の業績を挙げた前世紀の碩学である。

1933年の4月に連日のごとくに交わされた書簡数通はつとに1935年に編まれた『胡適文存』第4集にも付録として収められているが、それらは陳垣が胡適から「四十二章経考」と題した論文を贈られたのに端を発して2人の間でなされた白熱の応酬の様子を伝える。「梵訳の四十二章経も漸々(次第に)今の一切経に及べり」(杉田玄白『蘭学事始』の言葉)と言われるように、『四十二章経』は最初の漢訳仏典とされるもの。時に陳垣53歳、胡適42歳。

2人の主要な争点は、ブッダの訳語としての「仏」がいつの時代に始まるのかに存した。現行の『四十二章経』を漢代の翻訳と見なした胡適。それに対し、『四十二章経』の原型とすべきものが漢代に存在したことは認めつつも、漢代にはブッダは「仏」ではなく「浮屠」ないし「浮図」と表記されたのであって、現行の『四十二章経』には「仏」の文字が用いられているのだから後世の人間の手が加えられたものであるのに違いないと考えた陳垣。後漢から三国魏の中葉までは「浮屠(浮図)」、三国末から晋初までは「浮屠」と「仏」の併用、そして東晋から劉宋の時代に至ってもっぱら「仏」が用いられるようになったというのが陳垣の考えであった。

だが、陳垣説はあまりにも厳密で窮屈に過ぎるのではないか。そう考えた胡適は、5世紀の劉宋の時代をはるかに下る8~9世紀の唐の韓愈の作品「浮屠文暢師を送る序」に、「浮屠」なる言葉が7回も用いられ、「仏」なる言葉が1回も用いられていないことを持ち出して次のように言う。

「もしも万が一、不幸にして韓愈の他の文章、またそれと同時代の文献が全て劫火に遭い、ただこの序だけが世の中に残ったとするならば、後世の考古家はそれを根拠に韓愈の時代には『仏』なる訳語はなかったのだと判断してよいだろうか」

だが陳垣も引き下がりはしない。韓愈が「浮屠」なる言葉を用いたのは、文学者の文学的表現としてのことにすぎず、歴史家の記述なのではないと。

どちらに軍配を上げるかはともかくとして、2人が往復書簡という形式によって学術上の問題を論じ合い、真剣勝負を挑んだのは、中国の学者の古来の伝統に倣ってのことなのであった。