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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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再考の必要がある情報発信の重要性

2012年5月19日付 中外日報(社説)

外国では宗教がテレビを通して自分たちの主張を伝えたり、儀礼の様子を流すのは、ごく普通である。隣の韓国でも、カトリック、プロテスタント教会、あるいは仏教団体が専用のチャンネルを持っていて、日常的に宣教活動あるいは教化活動を行っている。

テレビ伝道が広範に行われているアメリカ合衆国では、常に工夫したテレビ番組を作っている。牧師が説教する様子をそのまま淡々と伝える番組もあれば、公園のような舞台装置を作り、ベンチの上で牧師と信者とが語り合う様子を流すという番組もある。

いわゆるメガチャーチの場合、数千、さらにそれ以上の人々が集まる会場で、牧師が熱く語り掛ける様子を流すのも定番になっている。テレビ伝道はアメリカの現代宗教を語る場合に欠かせない。

しかし、日本には「日本民間放送連盟放送基準」があり、これがテレビを布教活動に用いることへの規制力として働いているのは間違いない。だが、それだけが発信の少なさの理由ではないだろう。

伝統的な宗教の場合には、もともと自分たちの考えや実践に関する情報を、新しいメディアを通して発信しようという発想自体が乏しいのではないか。このことは、情報時代が進行し、スマートフォンのような従来とは異なる情報の発信形態が広まっても、それに対応した動きがあまり見られないことからも推測される。

アイフォンのアプリの中には、無料で聖書の全文、またコーランの全文を読めるものが複数ある。聖書には英文と日本文を対照させたものがあるし、コーランにはアラビア語と日本語を対照させたものがある。教会の説教の動画をアイフォンで見られるようにしたアプリも数多くある。

アイフォンアプリだけではない。社会の変化に対して保守的な印象があるカトリックだが、教皇庁がYouTubeに専用のチャンネルを持っていることは有名である。ところが仏教経典は日本語のアプリとして提供されている例すらほとんどない。社会で主要な位置を占めているはずの仏教宗派が、新しい情報メディアでの発信に対して、あまり熱心に思えないのはなぜであろうか。

むろんこうした新しいメディアを利用する必要がないと考えているのなら、それは一つの理念と言える。だが、何を伝えたらいいのか分からない、社会にどう向かい合ったらいいのか分からないという理由が介在している可能性はないか。もしあるなら、現在の状況は少し深刻に考えるべきだろう。