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後漢代に誕生した二つの道教の教団

2012年5月22日付 中外日報(社説)

2世紀中国の後漢時代に二つの道教教団が世上に姿を現した。

一つは今日の河北省から江蘇省にかけての東方沿海地域に教線を張った太平道。中平元(184)年、太平道教主の張角をリーダーとして勃発した反乱、すなわち「黄巾の乱」は後漢王朝を大混乱に陥れ、ついには崩壊に至らしめるきっかけとなった。

また一つは天師道であり、南鄭(陝西省漢中市)を根拠地とした天師道第3代教主の張魯は、建安20(215)年に曹操に滅ぼされるまで、陝西省南部から四川省にかけての内陸部の地域に後漢末の群雄の一人として割拠した。

張魯が支配した地域では、「長吏を置かず、祭酒を以て治を為す」、すなわち郡県の長官を設けることなく、道教の司祭が代わって統治を担当したと伝えられるように、さながら宗教王国の観を呈したのであった。

太平道と天師道は布教の地域を異にしたけれども、しかしながら両者の教法には似通ったところがあり、とりわけ信者に対して罪の告白懺悔を厳しく求めたことを共通の特色とした。病気も罪を犯したことがその原因だとされ、太平道では病人に叩頭させ罪の懺悔を行わせた上で護符と聖水を飲ませ、一方の天師道では「静室」と呼ばれる特別の施設を設けて、静室における罪の告白懺悔を病人に行わせたのであった。

そして興味深いのは、天師道の教法の一つとして、「教えて自隠せしめ、小過有る者は当に道を治むること百歩なるべく、則ち罪除かる」と伝えられていることである。「自隠」の意味を的確に把握するのは難しいけれども、「自ら隠む」と訓読して罪を痛切に反省させることだと解したい。その上で些細な過失であるならば、百歩の道普請を命じて償いとさせたというのである。

天師道では飲酒が禁止されたことも伝えられているのだが、ところで道教経典の『太平経』に、酒造りは穀物の浪費にほかならず、「酒の害は万端」であることを縷々として語り、従って酒を飲む者、また酒を売る者には「城郭、道路、官舎」の土木工事の労役を罰則として科すべきだとする一段が見いだされる。『太平経』は後漢時代に起源を有し、ほかならぬ太平道教主の張角がバイブルとしたとも伝えられる経典である。

罪の償いとして道普請を科し、飲酒を禁止した天師道。それと同様のことを述べる記事が『太平経』に見いだされるのは、太平道と天師道の教法の類似を示す一つの証左としてよいかもしれない。