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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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宗教者の社会活動 行政と良い関係を

2012年8月7日付 中外日報(社説)

さまざまな宗派の僧侶たちで高齢者や障害者らのケアや傾聴支援を進めている関西の団体が、相談や研修の会を市立の公民館で持とうとしたところ、「宗教」を理由に断られたと聞き、まだそんなケースがあるのかとがくぜんとした。特定宗派の「布教」でもなく、超宗派のNPOとしての活動であるにもかかわらず。

宗教者がいろんな社会的活動をする際、常に付きまとう行政との微妙な関係だが、「問題視」するのは専ら行政の側である。

東日本大震災でも当初、東京の斎場で運ばれてくる犠牲者の供養をしようとした各教派の宗教者たちが立ち入りを禁止され、場外で対応する事態となった。同じようなケースは東北の被災地でも相次ぎ、遺体安置所や避難所、後には仮設住宅などから「排除」されることがかなりあった。

「政教分離」が重要な問題になるのは、戦前の国家神道のように権力が特定の宗教団体を支え、優遇したり、逆に弾圧したりして介入する場合などだ。宗教側が社会的な課題に取り組み、場合によっては行政や政治に働き掛けることがあっても、それは別の問題だと考えられる。

しかし、この状況に「風穴」を開けた例も目立つ。宮城県では、従来から交流のあった仏教、キリスト教、新宗教などの団体、宗教者たちが震災直後に新たな組織を立ち上げ、共同で傾聴や支援、相談活動を続けている。医療者や研究者も巻き込んだ画期的な動きで、行政の信頼も得ている。

原爆被爆地の広島・長崎では諸宗教による「宗教者平和会議」が慰霊行事などで行政と良好な関係を築いている。京都では逆に市の側が今年度、自死防止の取り組みをしている僧侶らの団体ともタイアップして一般向けの悩み事相談会を寺院で開いた。

これら宗教者の動きの根底にそれぞれの信仰があるのは当然のことだし、公益法人問題を絡めて狭い意味での「公共性」をことさら強調する必要もない。その意味で、「超宗派だからいい」というのも本来は奇妙なことだ。

実際に、個別の宗教者・団体が行政と連携・協力して動いている場合も多い。例えば岩手では被災者を支えてきた寺院住職が行政委員の委嘱を受けて町の復興事業に深く関わっている。宮城でも仮設住宅に仏壇や位牌が配られた。

それらは現場での実績、関係者との深い信頼関係があってのことだ。宗教がNPOや企業のように真に社会の一員になれば、何の問題も起きないはずだろう。