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人の子にして医を知らざるは不孝者

2012年11月8日付 中外日報(社説)

今年の2月に天皇陛下の冠動脈バイパス手術の執刀医を務めた天野篤氏は、父親が心臓病であったのがきっかけで医師の道に進んだということを新聞記事で読んだ。

父親なり母親なりが病身であることを動機として医学や薬学に志した事例は過去の中国においても珍しくない。南宋の王応麟の『困学紀聞』(雑識篇)にそのような幾つかの話が集められている。幾つかを紹介するならば……。

4世紀の東晋の殷仲堪は、積年の病に悩まされている父親を何とかして快癒させたいと、「躬ら医術を学んで其の精妙を究め」た。父親はベッドの下をはい回る蟻の音を聞いても牛が格闘しているのではないかと思うほどの重い心悸亢進症を患っていたのである。

後に荊州の長官となった殷仲堪には、その官職名にちなんで『殷荊州要方』と呼ばれる医書の著作があったことも伝えられているのだが、父親の看病に当たっていた時のこと、父親の異常な病状に居たたまれず、思わず流した涙を薬を調剤していた手で拭ったために片眼を失明したという。

6世紀の梁の許道幼は、母親が病床に臥せることとなったのをきっかけに医書を読みふけり、やがて名医の評判を取るに至った。彼は一族の者を口癖のようにこう戒めたという。「人の子たる者、膳を嘗め薬を視、方術を知らざれば、豈に孝と謂わんや(食事の毒味をし薬を確かめ、医術をわきまえなければ、どうして孝といえようか)」。その訓戒に違わず、孫の許智蔵は祖父の医術を伝えて隋の煬帝の侍医を務め、一族の許澄も宮中の医薬係である尚薬典御を務めることとなった。

また7世紀の王勃に「黄帝八十一難経序」と題した文章がある。それによると、「人の子にして医を知らざるを古人は以て不孝と為す」と父親から絶えず教えられていた王勃は、立派な師匠を求めるべく旅に出、龍朔元(661)年、長安で出会った曹道真先生から古い伝承を持つ医書の『黄帝八十一難経』を伝授された。龍朔元年といえば王勃はまだ12歳。神童の誉れをほしいままにした王勃にいかにもふさわしい話である。

王勃は医学の道に進まず、「初唐四傑」つまり初唐を代表する4人の詩人の一人として名を知られることとなるのだが、幼少の王勃が父親から授かった言葉は、許道幼の訓戒の言葉と通底する。さらに時代が下って、北宋の大学者の程伊川にも次の言葉があることにも触れておきたい。「親に事える者は亦た医を知らざる可からず」(『近思録』家道)