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ヒロシマの煩悩超え 亡き友偲ぶ手記出版

2012年11月27日付 中外日報(社説)

「原爆で生き残った私は、生き残る使命を与えられたのだと思います」と、元中学校教諭・浜田平太郎氏(82)は言う。広島市西区田方1丁目在住の浜田氏は先ごろ、被爆死の友を追憶する手記『泉・第二集』を出版した。

昭和20(1945)年の8月6日、浜田氏は県立広島一中(現・広島国泰寺高)の3年生で、航空機の部品を作る工場へ動員されていた。しかし戦争末期には材料の金属が不足し、作業ができない。そこで市街地中心部の「家屋疎開」作業を命じられた。全市焼失を防ぐため、家屋を取り壊して火よけ地をつくるのである。

この作業では広島市内の中学校や女学校の1、2年生約6千人が死亡している。女学校1年生の妹・孝子さんも犠牲になった。作業場所は、原爆の真下に近い場所だった。

浜田氏は大病の直後で体調が悪く、その日は自宅にいたので、直接の被爆を免れた。しかし孝子さんと、銀行勤務で6歳年長の姉・照代さんの消息が知れない。浜田氏は2人を捜すため、焼けた市街を歩き回った。

自宅に近い己斐国民学校に負傷者がいると聞いた。焼け残った同校に多数の重傷者が横たわっていた。人々の体は、青白い光を放っている。その間に、孝子さんも倒れていた。家へ連れ帰ったが、間もなく死亡。お坊さんはいない。母・カトさんが白骨の御文章を唱えて、火葬した。照代さんの行方は、ついに分からなかった。

浜田氏のクラスは57人中、42人が亡くなった。浜田氏らは生き残った後ろめたさを背負いながら、遺族やゆかりの人々の寄稿を求めて、1年後にガリ版の文集『泉』を作った。級友の一人の手記の一節「思い出は泉のごとく」の1字が題号となった。広島での追悼文集第1号だった。

今回作られた「第二集」は、その後に判明した亡き級友の消息を含め、浜田氏が独力でつづった。被爆前後の広島をめぐる社会情勢を書き加え、記録写真も入れたB5判74ページ。表紙は妻・裕子さんが描いたムラサキツユクサの絵で飾った。焼失前の一中の生物教室前に咲いた花である。

被爆から67年たったのに、級友の親や兄弟姉妹の中には「語りたくない」と言って、浜田氏の取材を断る人もいた。「広島では、戦後がまだ終わっていないと感じました」と浜田氏。

煩悩というか"心の被爆"を癒やす役割は、宗教者しか果たせない。その宗教者も、原爆を知らない世代へと代替わりしつつある。