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情報発信の変化とツイッターの功罪

2013年1月31日付 中外日報(社説)

2006年に始まったツイッターの利用者は日本でも急速に増加した。宗教研究者や宗教家の中にも、ツイッターを自分の意見の表明の便利な道具として用いている人が増えている。この傾向はしばらく続くと予測される。

インターネットが大衆化して以来、影響は宗教界にも及び、宗教関係者も相次いであらわれた情報発信のソフトウエアを利用するようになった。ホームページから始まり、ブログ、ミクシィ、フェイスブックなどが広まった。ツイッターは最も気軽に参画できるので、多くの人が利用している。

しかし、一部だろうが、少しどうかと思われるような現象もあらわれている。例えば、ある人に本を贈ってもらったり、何らかの手助けをしてもらった場合、当人へ手紙やメール等で謝意を示す前に、ツイッターにそのことを書き込むというような例だ。依頼された原稿が、時間がないという理由で締め切りよりも大幅に遅れているのに、ツイッターには、関連する話題を連日大量に書き込んでいるといった例もある。

これはいずれ関係者にも明らかになってしまうことである。一方では礼を欠くような行為をしながら、ツイッターには関連する情報を次々と流しているのが、本来そのことについて連絡を受けるべき人にも分かってしまった場合、どのような印象を与えるだろう。

そのような対応が恒常化すると、当然その評判は次第に広まる。ツイッターは熱心だが、肝心の連絡はしてこない人というような評価が生まれる。面白いことにツイッターにはまってしまう人は、そうした評価にあまり重きを置かない傾向があるようだ。

新しいメディアは人の意識や行動形態を知らぬ間に変えていく。携帯電話が一般化したことで、待ち合わせの約束の場所と時間をきっちり決める必要がなくなったのはそのいい例だ。だが、どういうメディアを用いていても、内容の信頼性、そしてその情報を流す人の信頼性が最も大事であるということに変わりはない。

日常的なつながりを大事にし、しかるべき役割や義務といったものを果たした上でのツイッターでの発信であろう。何が本当に大事かの議論を常に投げ掛けてくるのが、インターネットを介しての情報交換のツールである。研究者や宗教家は、損得ではなく信頼に重きを置く職に関わっているはずだ。そのような立場にある人は、便利さに目をくらまされ、自らの信頼を失うようなことがないようにしたいものである。