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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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利得追求の社会で試される宗教の真

2013年3月9日付 中外日報(社説)

ある有名人と対談したことがある。対談の後でその人は「宗教を信じて何かいいことがありますか」と尋ねた。その人は宗教とは無縁というわけではなかったので、筆者はびっくりして、思わず「余計な心配がなくなるんじゃないですか」と言ってしまったが、この答えは何とも気に入らないものだった。いっそ「何もありません」と言うべきではなかったかと思ったのである。

碧巌録第一則に、武帝が「私は寺を建てたり僧を育てたりして仏教興隆のために尽くしましたが、どんな功徳があるでしょうか」と尋ねたところ、達磨大師が「何もありません」と答えたという話がある。この答えはすがすがしい。

デンマークのキリスト教思想家キルケゴールは、キリスト者とは真理を証しして苦難の道を歩む人間のことだと主張した。19世紀のデンマークでは真面目なクリスチャン、つまり正しい信仰を持ち教会の行事に欠かさず参加する市民は、人々から尊敬され信用もあって、結婚にも就職にも営業にも有利だったので、多くの人がそのためにクリスチャンになった。

キルケゴールはそれを批判したわけである。生活に有利だからといって教会に行くような人間は本物のクリスチャンではないというわけだ。実際、宗教者が「何かいいこと」を求めるのは間違っているといえる。むろん宗教に入ればいいことがある。それは、人間とは本来どういうものかが分かるということであって、それ以外にはない。キルケゴールが言うように真理の証し人は無理解と反感に耐えねばならず、しかも良心的な自己批判と自己吟味をおろそかにすることはできないのである。

ところで真理を証しすれば、やはりその証しを受け取る人が欲しかろう。受け取る人が増えて教勢が盛んになれば、必ず金や名誉などを求めて来る人が現れる。他方、受け取る人がいなければ、証しはむなしかろう。現代は人も物も売れるかどうかで価値が決まる世の中である。今の世では「何かいいこと」とは結局のところ「売れる」ことだ。何の利得ももたらさない「真理の証し」が今の世に「売れる」わけはない。

宗教は、特にいわゆる先進国でますます「売れなく」なってゆく。宗教はやがて消滅するとみる人も少なくない。しかし、それは何か利得を求めて宗教に来る人がいなくなるということでもある。見方を変えれば、それは宗教のためになる。宗教に来ても何もいいことがない現代こそ、宗教者の真偽が試される時代かもしれない。