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200年後の盗掘で世に出た王羲之の書

2013年3月19日付 中外日報(社説)

2月の中旬、東京上野の国立博物館の「書聖王羲之」展に足を運んだ。展覧会の会場で購入した図録はなかなかの豪華版で内容豊富だが、そこには触れられていない王羲之に関する一つの記事が『陳書』の始興王伯茂伝に見いだされる。始興王伯茂は陳王朝の文帝の第2王子である。

それによると、陳の天嘉2(561)年のこと、ある軍団の兵士が丹徒(江蘇省鎮江市東南)において郗曇の墓を盗掘し、王羲之やその他の名士たちの書跡を大量に手に入れた。だが間もなく事件は発覚し、書跡は没収の上、王朝の秘府の所蔵になった。文帝はそれらの書跡のかなりのものを文雅のたしなみのある伯茂に賜り、かくして伯茂の草書、隷書の腕前は大いに上がり、また王羲之の書法を会得したというのである。

郗曇は実は王羲之の妻の弟で、それにまた王羲之の末子の王献之の最初の妻は郗曇の娘であって、王家と郗家とはごく親しい間柄だった。王羲之の尺牘(書簡)にも郗曇はしばしば登場する。例えば次のような文面の尺牘が伝わる。

重煕からこのような便りが届きました。もし彼の言うとおりだとすると、張平めのことが憂慮されます。軍勢をととのえて黄河の南の地域に進軍しないかぎり、諸公はいかにして太刀打ちするつもりなのでしょうか。……たとい重煕がこの一戦に奮起一番したところで、浅見としか言いようがありません。まったく昨今の戦局には手の打ちようがない。

重煕は郗曇の字。そのころ、郗曇は華北に覇を唱える鮮卑族王朝の前燕の進攻に備えるべく下邳(江蘇省睢寧県の西北)に置かれた東晋の前線基地に指揮官として派遣されていたのである。張平は前燕の将軍であり、郗曇は張平軍に対して攻撃をかけようとしていたのだろう。王羲之は綿密な計画を欠く軽挙妄動はくれぐれも慎んでほしいと気をもんでいるのだ。

果たして郗曇は前燕との戦いに敗れて引き揚げてくる。そして東晋の升平5(361)年、42歳をもってあっけなく亡くなってしまう。郗曇の父親、従って王羲之の岳父に当たる郗鑒は京口(江蘇省鎮江市)を本拠とする軍団長であったから、郗家の墓はその近くの丹徒に営まれていたのであろう。そして郗曇のゆかりの品として王羲之の尺牘も墓中に納められたと考えられる。それからちょうど200年後の陳の天嘉2(561)年にその墓が盗掘に遭い、再び世に姿を現すこととなったのも不思議な縁といえるかもしれない。