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なぜ「個人」でなく「人として」なのか

2013年7月6日付 中外日報(社説)

憲法改正問題が政治の焦点になろうとしているが、第9条(戦争放棄)、第96条(改憲手続き)もさることながら、例えば国民の権利の尊重についても気になる点がある。

現行憲法には、すべて国民は「個人として」尊重され、その権利は立法等の国政の上で「最大の尊重を必要とする」(第13条)と明記している。それに対し自民党の改正案は、すべての国民は「人として」尊重され、その権利は「最大限に尊重されなければならない」としている。

まず、「個人として」と「人として」の間には、個性と一般性の違いがある。前者では個人が感じ、考え、選び、行動することについて、その個性と良心が尊重されるのだが、後者では通念的人間の一般性が尊重されるのだから、一般性と異なると判断された個性は尊重されないことになりかねない。単なる表現の違いとしては見逃せない落差だ。

人類の歴史において新しい価値――例えば基本的人権、世界平和、差別の否定――は、まずは個人として提唱されて一般性を獲得してきた。憲法が、個性を人間性一般の通念から否定する指向性を持つことになれば大変なことだ。

同党の改正案は、同時に「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」という条文を新たに設けることも提案しているが、そもそも「人として」と規定する場合、それは「国民として」の枠を超えるものであるのは明確だといえるのだろうか。

さらに「最大」と「最大限」は違う。前者は他のあらゆることに優先するという意味になるが、後者ではすでに設けられた一定の枠の中での「最大限」になる。むろん現行憲法でも国民の権利尊重には「公共の福祉に反しない限り」とする限定がついているが、自民党案では「公益及び公の秩序に反しない限り」と限定が強化されている。

「公共の福祉」といえば未来指向的で、現在のさまざまな活動が未来の福祉をもたらし得るという含みがある。ところが、「公益及び公の秩序」は現在的であって、現在の利益、秩序に合致しないと判断されれば、未来を拓く新たな価値観に基づく活動の権利も否定されてしまう。

現行憲法はGHQによる押し付けだから改憲の必要があるとは、よく言われる。しかし単純な、ある意味で感情的な「押し付け」論にくみするのは慎重でありたい。改憲論がよって立つ理念、根拠を慎重に吟味したいものだ。