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書評者との対話から連想した中国の訳経

2013年8月1日付 中外日報(社説)

ある週刊誌の書評欄で、ミステリー部門を担当しているAさんの元には毎週、約10冊の新刊書が編集部から届けられる。その中で最も印象的だった1冊の批評文を書く。全部を読むのは大変だが、数ページ読んだだけでやめる本が、意外に多い。

"汚い文章"だな、と思うことがある。外国作家の新作を、若い翻訳家が邦訳したものにありがちだ。恐らく、外国語の文を読む力はあるのだろうが、訳文が日本語になっていない。

"ややこしい文章"も困りものだ。一部の作家は「入り口から読者にややこしく仕掛けてきて、状況を分かりにくくする」という。既成作品とは違った表現を狙っているのだろうが、読み慣れたAさんにすら理解しにくい文章表現の小説が、一般読者に読まれるはずはない。版元の編集者は、原稿を読んだ上で印刷に回したのだろうかと疑いたくなる。

「私の書評文をもとに買い求めた人全てが、その著書に満足していただけるようになってほしい」と願うAさんは「読みやすく、分かりやすい小説こそ名著というべきです」と語る。

さて、読みやすい文体の小説を期待するAさんの話を聞いて、古代中国の仏教経典の漢訳事業のことを連想した。1世紀、後漢の時代に仏教が伝えられた時、仏教者たちはサンスクリットの経典の漢訳に努力した。

訳経者の中では、5世紀の鳩摩羅什と、7世紀の玄奘三蔵の功績が特筆される。インド系の鳩摩羅什が意訳を心掛けたのに対し、漢族出身の玄奘三蔵は原典尊重の姿勢を貫いたという。

訳経のためには、いつも大規模な"編集プロダクション"が組織された。国家的事業として、時の王朝が資金援助をした。全体を幾つもの部分に分け、まず直訳をする。それを大声で読み上げる係がいる。修正係が、耳に親しい文章表現にするための手直し案を示して討議を重ねる。最後に全体の統率者が決裁する。

こうした共同作業の積み重ねを経て、阿弥陀経や法華経は鳩摩羅什訳が、また般若心経は玄奘三蔵訳が現在に伝えられた。経典の漢訳がなかったら、仏教が東アジアに広まっただろうか。

中国の訳経事業と、Aさんの書評とは、時代も性格も全く違っているが、共通する点もある。出版には、読む側への配慮が必要だということ。そして"汚い文章"では読む側から顧みられない、言葉を大切にしなければならない、ということである。