ニュース画像
6メートルの高さから流れ落ちる「法水」に打たれる神輿と奉仕者
主な連載 過去の連載 エンディングへの備え
苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
購読のお申し込み
新規購読キャンペーン
紙面保存版

宗教の公共性とは? より本質的な観点を

2013年8月3日付 中外日報(社説)

「宗教と公共性」をテーマにした研究者によるパネルディスカッションが京都の国際日本文化研究センターで開かれた。「国家神道」が日本で帝国主義ファシズムの完成過程において、国民、そして植民地とされた朝鮮半島をも含めた「臣民」の精神的統合の手段として使われたことによって「公共性」を最大限発揮した、という歴史をめぐって論議がなされた。

翻って現在は、宗教の社会貢献という文脈で公共性が論じられるが、東日本大震災での宗教界の支援の取り組みを見ても、宗教教団や宗教者が社会の問題に関わることは当然だ。そこでの論議は、例えば「布教」のような個別宗教の論理ではなく、社会の構成要素としての宗教の在り方が公共性を担保する、といった問題の立て方に特徴がある。

しかし伝統教団の中には、「公共性」を言うと、「世間や時流に迎合するならまるで戦前の国家神道だ」と反発する向きもある。パネルではそんな姿勢に対し、各教団がこぞって国家神道に包摂されていった過程を自らのこととして総括するという「『宿題』を忘れた態度だ」との批判がなされた。

一方、震災での支援や復興で宗教者や宗教施設が行政によって排除される事態への「政教分離のはき違え」という批判も、社会や国家と宗教との関係をしっかり踏まえないと、危うい方向へ行く。

大阪の寺で開かれたセミナーでは、「2・5人称の死」という観点が、僧侶が葬送問題で向き合うべきものとして提示されたが、これは宗教の働き全体に言えることだ。「あなたがしてほしい事を、あなたも他人にしなさい」という多くの宗教に共通する黄金律。つまり、自分と相手だけでなく、今ここにいない人々、「2・5人称」の誰かへの想像力に裏付けられた利他だ。そのための働きこそが宗教の根源ではないか。

あえて公共性を唱えると、国家神道のアナロジーにつながったり社会から宗教が遊離した姿を元に戻そうという弥縫策に取られたりする。「優遇」税制や宗教法人制度問題を背景に、「世間に認められる宗教」との発想で議論されると、さらにうさんくささが付きまとう。「公共的」ならいい、という問題でもなく、「良い公共性」と「悪い公共性」という単純な論理構成も本質から離れている。

それは宗教が、個人の心の中の指針としての「信仰」にとどまらず、行いなどによって発信され外在化したものとしての「大きな物語」である以上、本来的に「公共的」であるはずだからだ。