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また「だまされた」と言わねばならぬか?

2013年12月12日付 中外日報(社説)

終戦翌年の昭和21年、映画監督の伊丹万作は「戦争責任者の問題」と名付けた書簡に「だまされていた、といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」と記した。日本映画の基礎を築いた一人といわれた人で、映画『お葬式』の故伊丹十三監督の父親。作家・大江健三郎氏は娘婿である。

この書簡は、当時の「自由映画人連盟」による映画界の戦争責任者追放の動きに異を唱えたものだが、映画人の責任否定ではなく往時の「一億総ざんげ」論に与するものでもない。敗戦で国民全体が二度とだまされまいとする真剣な自己反省と徹底的な自己改造の努力を迫られ、その方面に自分の思考を奪われているのだという。

「だまされていたという便利な言葉で一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易な態度は、日本国民の将来に暗澹たる不安を感じさせる」などとも主張していた。時代は下り、先日、強引な特定秘密保護法制定で真っ先にこの書簡の文章が頭に浮かんだ。

同法の成否は日本の政策が民主主義的に決まるかどうかの分水嶺になるとさえいわれた。その危険性は多くの新聞が廃案や慎重審議を求め、必死にキャンペーンを展開したことでも分かる。この欄でも何度か疑問を提起した。

同法の法制化は警察官僚も熱心に推進したと聞く。与党の釈明にもかかわらず、いずれこの法律は思いもよらぬ形で国民生活を締め付けてくると予想される。その時になって私たちはまた「だまされていた」と言うのだろうか。

国会で多数の横暴が通ってしまった今、日本の新聞ジャーナリズムの「3度目の敗北」という声を耳にする。自戒を込めて振り返ると、日本の新聞は戦前・戦中の翼賛報道を「負」の教訓として再出発した。それが1度目の「敗北」である。2度目は原発の「安全神話」を信じ福島の事故を招いたこと。そして今回だが、筆者は早くから全国紙の報道について「国民の知る権利」が「報道の自由」にわい小化されて伝わる恐れがあると危ぶんでいた。池上彰氏が言うように読者は新聞社の問題と受け止め、社会を変えてしまいかねない問題なのに反対の主張が十分浸透しなかった可能性がある。

同法のテロの定義に関する文言「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し(以下略)」(第12条)は、どう説明されても人の心に踏み込む規定としか読めない。宗教界も無関係なことではなく、今後一層監視を強めねばなるまい。