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密出国をしてまで入竺求法した玄奘

2014年2月15日付 中外日報(社説)

「原稿用紙1枚に満たない文字数ですが……」と話すのは、首都圏在住の文筆家・Aさんである。思い立って、般若心経の暗記に挑戦したが、うまくいかない。意味を理解しないまま、漢字の並びとして覚えようとしたためか。「60代半ばになると、記憶力が低下するのですね」

Aさんは、高校時代の友人に先を越された。友人は昨年末、やや長期の入院をすることになり、許可を得て病室にパソコンを持ち込んだ。ひまひまに般若心経を入力したところ、パソコン写経が功を奏し、たちまち262字を暗記してしまった。その上、予定より早く退院できた。

般若心経の冒頭には「観自在菩薩」の5字がある。5世紀初めの鳩摩羅什訳の法華経などで「観世音菩薩」として定着していたが、7世紀に玄奘三蔵が、より原語に忠実にと「観察の自在な菩薩」として改訳した。心経はこの玄奘訳が広く愛誦されている。

漢訳経典では玄奘以後のものを「新訳」と呼び、それ以前のものを「旧訳」として区別するが、「観世音」と「観自在」とは中国訳経史の進展を端的に象徴するものといえよう。

隋時代の602年、洛陽近くに生まれた玄奘は、数え年13歳で出家、成都で修行した。618年、王朝は隋から唐にかわった。玄奘は経典の内容や教説への疑問を解決するため、入竺しての研究を願ったが、建国早々の唐は出国を許さなかった。

そこで629年、28歳の玄奘は密出国の形で出発した。政府から"指名手配"された玄奘は、昼は民家に身を隠し、もっぱら夜間に行動した。タクラマカン砂漠経由のコースは、戦乱のため大回りを余儀なくされた。

インドではナーランダ寺院などで学んだ。657部の経典と8体の仏像を携え、再び西域経由で帰国の途に就いた。インダス川を渡る時、船が1隻沈み、経典の一部が水没した。その地で失われた経典を再び筆写するという苦労を重ねたようだ。

足かけ17年後の645年に帰国した時は唐の朝野がこぞって歓迎した。その後の玄奘は664年に没するまで、長安で訳経に専念した。皇帝の命令で梵語に通じた僧侶が集まり、玄奘に協力した。訳経場の大慈恩寺跡には、大雁塔がそびえ立つ。

今、写経にいそしむ人々は、インドから経典を中国にもたらし、漢訳に努めた玄奘ら仏教者の苦労を想起してほしい。今年は玄奘の出家から1500年。