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宗教の説く「利益」 清浄な心と自利利他

2014年4月9日付 中外日報(社説)

ある中年の婦人が「私は宗教を信じれば何か利益があると思ってきたのに、どうも宗教は利益を求めることを嫌うようだから信仰はやめます」と言って去っていった。確かに現代で利益といえば、もうけること、勝つこと、楽しむことだから、この意味での利益を求めて宗教に来るのは見当違いではある。宗教は我執我欲からの自由を説くものだ。

しかし、むろん宗教は利益を無視するわけではない。その利益とは「自利利他」の「利」、親鸞の言葉でいえば、願作仏心・度衆生心つまり清浄なこころが人間性、あるいは人間生活にとって持つ「利益」である。ただ、この利益は現代社会では歓迎されず、この利益を求める人は冷たくあしらわれる。前述の婦人はそのことに気付いたのであろう。

宗教は宗教がもたらす利益を大胆に主張すべきだと思う。とはいっても利益を正面に掲げれば、やはり誤解を生んでしまう。西欧のある有名な神学者が「浄土教は極楽に生まれて楽をしようというエゴイズムに基づく宗教である」と書いたような誤解である。

その神学者は「仏教は自我の解消を求める宗教である」とも書いている。ここにも「無我」に関する誤解がある。文字通りの意味で自我がなくなったら大変だ。自我は自己同一性を保ちつつ、自分の置かれた状況を認識して考え、行動を選択・実行して責任を持つ機能だから、この意味での自我が失われたら人間は人間でなくなってしまう。

仏教は我執・我欲の解消を求めるもので、これは自我の正常化をもたらす。ブッダが教えた八正道(正しく考え、正しく語り、正しく行う云々)に示されている通りである。

利益というとき、我執的・我欲的自我の利益と、清浄心が求める利益とを区別すべきであろう。後者は平和と真実を求めるこころに連なり、この世の不条理にも屈しない強さを持つものだから、単に個人ではなく、社会的利益――社会の正常化――にもなるはずである。

それは同時に、人間は単なる自我ではなく、自我を超える深みから生かされる個だという認識だが、現代では個と自我とが混同され、従って自我と身体が乖離して身体は肉体に変貌し、自我が肉体を支配するという構図が成立して、逆に自我は肉体の反逆に苦しんでいる。

本来性の実現が利益だということを誤解されないように語るのは容易ではない。宗教は新しい言葉を生み出すべきであろう。