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老いと命の意味 生きることの深い輝き

2014年4月18日付 中外日報(社説)

同窓会などの集まりは、80歳を過ぎると自然消滅になることが多いようだ。しかし親しかった仲間の会合はさらに長続きして、2、3人になったメンバーが会って話をする。「元気でなによりだ」「いや、もう生きているだけだよ」

しかし「生きているだけ」で実は大変なことなのである。多くの生物は生きて子孫を残して死ぬ。ただそれだけだ。人間は他のことをする時間をつくり出した。言葉を使う人間は一緒に働いて、モノやサービスを作り、売買して豊かになった。売買には競争原理が働くから秩序を保つ必要が生じて、社会には政治や経済や文化というような諸部門が成り立ち発展するようになった。ただ生きるだけでなく、働いて作って豊かになる、そこに人生の「意味」を見るようになったわけである。

人生の関心が儲けること、勝つこと、楽しむことに向けられ、現代ではそれがピークに達しているように見える。しかし生物はもともと――子孫を残すことを含めて――ただ生きてきただけのものであり、健気で懸命なその営みが現在の生命に満ちる地球をもたらしたのである。

そもそも地球上に生命が現れたというのが大変なことだから、生きること自体が無限の意味を持っているといっても過言ではない。皆が生きているからそれが目立たないだけである。もし――むろんこれは自己矛盾だが――無生物が生物を見たら、とても羨ましく思うに違いない。

「病床六尺」に生活を限局して「仰臥漫録」を書いた正岡子規はただ生きるだけの生――むしろ苦しむだけの生――を味わうことができた人である。むろん子規は味わうだけではなくそれを表現するすべを知っていた。偉大な俳人であり得た所以だが、しかし表現の底には病床でただ生きるだけの生を味わう能力があったのである。

高齢社会には寝たきりの人が少なくない。看病する家族も年老いてゆき、病人の死後は自らも死んでゆく。現代社会は戦力にならないこれらの人を――誰でもやがて老いてゆくのに――厄介視することすらあるのだが、人には老いと病の中で生の深みを味わい、会話において――表情だけでもいいのだ――「人格」としてコミュニケーションを歓ぶことができる。

生きる営みは無限の味わいを秘めている。儲けること、勝つこと、楽しむことだけに意味を求めるのは生に対する無理解というべきだ。「ただ生きるだけの生」において健康人に思いも寄らない生の深みが開示され得るのである。