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植村直己さん追想 武器を持たずに秘境へ

2014年7月23日付 中外日報(社説)

30年前の1984(昭和59)年2月、北米マッキンリー登頂成功後に消息を絶った探検家の植村直己さんは生前、世界各地の秘境に足跡をしるしたが、どこへ行く時も武器を持たなかった。

「言葉の通じない住民の集落に行き着くことがある。私が武器を持っていないことを、相手は気配で察知し、食物を出したり、宿を貸すなど、村をあげて歓迎してくれます」

では、猛獣に襲われることはないだろうか。北極圏で野営していると、白熊が近寄ってくることがある。「テントの中でじっとしていると、やがて静かに去って行きます」。それが植村さんの無手勝流人生だった。

もう一つ、思い出す体験談がある。69年前の8月、日本が連合国に降伏した時だ。朝鮮北部のある町に、約20人の見習士官がいた。陸軍少尉への任官が内定しているが配属先が決まっていなかった。「38度線より北にいる者は、ソ連軍に武器弾薬を引き渡せ」との指令を受けた。

「ソ連軍に拘束されると、シベリアへ送られる。南下して、米軍に身柄を委ねよう」と申し合わせた。集団行動は目立つので、個別行動を取ることにした。

兵器庫には、護身用のピストルが7丁しかなかった。筆者の知人のAさんは、くじ引きに外れたので、武器なしで出発した。当時の朝鮮住民は日本人、特に軍人に敵意を抱いていたので、昼は身を潜め、夜間に行動した。

それでも数回、住民の女性に見つかった。だがその都度Aさんはにぎり飯を与えられた。300キロを歩き抜いて3週間後、Aさんたち約10人は38度線を越すことができた。残りは消息不明である。しかもピストル携行者は、一人も南へ到達できなかった。

「今思うと、武器を持っていた仲間はそれが態度に表れ、住民の警戒心を誘発したのではないでしょうか」。約10年前に死去したAさんはこう言い残した。オフレコの約束だったので、詳しい数字や地名、人名などを聞くことはできなかった。

集団的自衛権をめぐる論議を聞いて思った。個人の体験がそのまま国レベルの問題に当てはまることはないだろう。しかしこんな前例がある。73(昭和48)年の第1次オイルショックの際、イスラム圏の産油諸国は「日本は中東戦争には中立の立場だ。イスラエル支持の欧米諸国に加担することはない」として、原油を優先供給してくれた。このような好意が、今後も期待できるだろうか。危惧なしとしない。