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佐世保の事件に思う やさしさを喚起する教育

2014年8月8日付 中外日報(社説)

少女が友人を殺害してその身体を損傷する事件が起こった。動機を尋ねられて、少女は人を殺して、体内を見たかったと答えたという。この説明を鵜呑みにしたり、逆に無視することもできない。動機はおそらく複雑で、簡単に特定できるものではなかろう。ただ、一般論として背景に時代の風潮があることを指摘したい。

生き物をむやみに殺してはならないことは、少年少女には通常道徳として教えられる。それが無用だというつもりはないが、それだけでは不十分である。哀れみ、いたわり、思いやりという心が、つまりは他人なり動物なりの苦しみを自分の苦しみとして実感するやさしさが求められる。

しかしこれは道徳教育だけでは育たない。周囲の人々が実際に他人や動物なりの痛みや苦しみを自分の苦痛として感じる現場を子供たちが経験する必要がある。むろん、当人がやさしく扱われることも必要である。

現代は万事を知に解消する。生と死は生物学的ないし医学的に説明され、その過程を知的に認識するよう教えられる。現代では一般に情に動かされることは前近代的とされ、感情を抑えて知的に振る舞うことがよしとされる。こうした環境では少年少女が――子供は残酷なものだ――歪んだ「興味」から生体を解剖してみたいと思うことはあり得ないことではない。実際、客観的「認識」という他者への関わり方は、他者をモノとして扱いがちなのである。

現代は万事を、善悪を含めて、知に解消するのだが、知的な情報は速やかに伝達され、共有される。伝達の手段も高度に発達している。それに対して感情や感覚は直接には伝わらない。これらは伝達されるのではなく、まず呼び覚まされるものである。他者の苦痛を自分の苦痛として経験するのは「やさしさ」だが、それが喚起されるためには周囲の人々の感情表現が必要である。優しい人たちの表情と言葉と振る舞いに接することが大切である。

さらに互いに思いやる訓練と指導が必要である。一般論だが、こうした経験が「やさしさ」を喚起し育てる。現代以前、人々が生活の場を共にして互いによく知り合い、愛情をいだき合っていた時には、思いやりはいわば自然に育った。一軒隔てた先には誰が住んでいるかも定かではない現代では事情は一変している。善悪を知の事柄として教える道徳教育では足りない。実際の人間関係の中で「やさしさ」や「思いやり」を経験させること、育てることが求められている。