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仏教の寂滅と通じる キリスト教的静寂の境地

2014年9月3日付 中外日報(社説)

ギリシャの北部ハルキディキ半島に聖山アトスがあり、「ギリシャ正教会の修道院共和国」といわれている。9世紀にはすでに修道院があったとされ、自治権すら認められるようになった。さてそこからはやや離れた、海に面した絶壁の上に、古い修道院が立っている。かつては各地から集まった修道僧が礼拝や祈り、瞑想、講義や研究、野外での労務など、多彩な行事を繰り広げていた。しかしいまではあまり多くない僧たちが修道生活を送っている。

そこに年老いた(名目上の)院長がいた。早朝のミサと朝食が済むとベランダに出て頑丈な椅子に掛け、一日中海を眺めていた。修道院には通常の行事以外に、旅の僧や観光客が訪れたり、隣の――といってもかなり離れた――修道院から行事の相談があったり、壊れた壁の修理がなされたりするから、夕方には初老の副院長がベランダに来て院長に一日の出来事の報告をする。院長はうなずきながら聞いている。夕食と晩祷が済むと自分の部屋に引きこもる。毎日がこの繰り返しだったという。

それを聞いて何と退屈なと思う人もいるだろうが、来る日も来る日もただ海を見ていられるとは何と羨ましい老年の過ごし方かと思う人もいるだろう。そう思うのは老院長のこころに平和な静寂を見る人であろう。これは繁忙な人のこころの奥にもあるものだが、年老いて仕事がなくなれば意識の表層に現れるだろう。静寂はギリシャ語でヘーシュキアといい、特にアトスの修道院で培われた徳である。新約聖書のエイレーネー(平和、平安)にも連なる。権利や所有や業績や勝敗を離れた静かなこころのありようのことで、仏教の寂滅に通じるところがあるともいえよう。

厭きることもなくひねもす海を眺めていた老院長の目に、風景はどのように映っていたのだろうか。かつてわれわれが幼い日に眺めた樹々や草花は――今は忘れ去られてしまったが――豊かな生と不思議な予感に満ちていた。「静寂」な老院長の目には、海と空と遠い島影とが、老いた目にもなお変わらずに、この世ならぬ神秘に満ちたものと見えていたのではなかろうか。そうでなければ毎日同じ景色を眺めてはいられないだろう。

それは進歩や発展や経済成長と称して、儲けること、勝つこと、楽しむことに専念し、自然を材料や食物や観光資源、たかだか人間中心の環境、要するにただのモノとして見ることしかできなくなった多忙な現代人より、どれほど豊かな生であったことだろうか。