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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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普通名詞で語られる人 響かぬ一般論の「命の尊さ」

2014年9月12日付 中外日報(社説)

「人を殺してみたかった」。長崎県佐世保市の県立高校に通う高校1年の女子生徒は、同級生を殺害、死体の一部を損壊した理由として、警察の調べに対してこう供述しているという。約20年前に神戸市で起こった「酒鬼薔薇事件」の時などもそうだったが、10代の若者らによる殺人事件が起こるたびに驚かされるのは、その殺人の動機だ。

彼、彼女らが語る「人」という言葉のなんと無感情、無機質なことか。そこには被害者も自分と同じように名前があり、親、兄弟姉妹もいて、傷つけられれば痛みを感じる生身の人間であるという思いがほとんど感じられない。

今から半世紀以上前の1953(昭和28)年、今回と同じように世間の注目を集めた若者の殺人事件が起こった。

慶大卒の青年が、証券ブローカーを殺害。遺体を都内のバーの天井裏に隠したが、天井から血がしたたり落ちて店内が騒然となる猟奇的な殺人事件だった。犯人の青年が普段から異性交遊や賭け事に明け暮れる生活を送っていたことから、マスコミがこの事件をセンセーショナルに取り上げた。

青年は従来の思想、道徳に拘束されずに行動する、アプレゲールの典型だったが、犯行の動機は金目当てで、「人を殺してみたかった」わけではない。「今の若者は何を考えているのか分からない」と世の中に衝撃を与えたのは、有名大卒業の経歴や、その奔放な生活ぶりが原因だった。

浄土真宗の開祖親鸞聖人は、「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(「歎異抄」)と、人間存在の危うさに鋭い視線を投げ掛けている。

約60年前に青年を犯行に駆り立てた「業縁」は「金」だったが、佐世保事件の少女の殺人願望の背後にあるのは「深い心の闇」であり、どのような「さるべき業縁」がそこに潜んでいるのかは明らかにされていない。

識者らがマスメディアで犯行動機をめぐって様々な分析を冗舌に語り、家庭や学校で人間だけでなく動植物などあらゆる命の尊さについての教育が疎かにされていることが問題、などと論じている。

人や生き物の命を尊重することを教えるのは大切だが、ここで言う「人」や「生き物」が普通名詞にとどまっている限りは、命の尊さは子供たちの心には響かない。具体的な顔、形を持つ固有名詞の人、生き物の存在を通し、異なる「さるべき業縁」を抱えた一人一人の子供たちに向き合うことが必要。宗教者が語る「命の尊さ」は一般論に流されていないか。