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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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宗教者の生きざま 悩める姿を見せることも

2014年10月3日付 中外日報(社説)

それぞれの宗派や教団には、開祖に当たる宗教者がいる。彼らは、祖師や教祖として仰がれ、祖師伝や教祖伝も編まれている。そうした信者向けの伝記とは別に、小説家や思想家が書いた祖師伝、教祖伝もある。このような伝記は、しばしば宗門の枠を超えて多くの人々の心を打つ。開祖といえども生身の人間であり、彼らの求道過程における苦悩や葛藤が描かれているからである。

同じ宗教者であっても、開祖は別格という思いがあるかもしれない。しかし、僧侶、牧師、教会長など、自他ともに宗教者を任ずる人ならば、開祖の生きざまにもっと自分自身を積極的に重ねてもよいのではないか。宗教者は、檀家や信徒の前では宗教者らしく振る舞うことが求められている。だからといって、いつも円満具足であるべきだと思い込む必要はない。

宗教者もまた生身の人間である。苦しくつらい体験もすれば、悲しみに身もだえするときもあろう。そうであってもよい。けれども、どんなに人生のどん底にあっても、それに打ち負かされることなく、救いと希望をもって生きていこうと強い決意を持つ。宗教者のそのような姿に、人間としての深い側面がキラリと垣間見られるのである。

宗教が宗教であり得るのは、そこに常に逆説的な問い掛けが存在するからである。不幸に直面したときに、神も仏もあるものかという言葉がつい漏れてしまうことがある。しかし本当は、神や仏がいるから苦難があるともいえるのである。善いことをして果報が得られ、悪事を働けばその報いがあるという単純明快な世の中であれば、神仏の出番はないし、宗教も要らない。けれども現実は違う。だからこそ、人々は神仏を求め、宗教が成立してきたのである。

いわゆる宗教者でなくとも、苦難に直面しつつ、救いと希望を求めようとする人々に、そうした宗教的な姿を見ることができる。『アンネの日記』の著者アンネ・フランクもその一人であろう。ゲシュタポに狙われ、緊迫した不自由な生活を強いられる中、彼女は「私たちを今のような私たちにしたのが神様なのは確かですが、いつかふたたび私たちを高めてくれるのも、やはり神様にちがいありません」と書いた。

要は、自分の信仰の姿のありのままを見てもらうこと。人間として葛藤や悩み、悲しみを通じて救われていく過程を知ってこそ人々は宗教の神髄に触れ、宗教的な生き方に魅かれるのである。宗教者には身をもって、そうした生きざまを示すことが求められよう。