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無知から来る恐怖 無理解と不寛容を越え

2014年12月5日付 中外日報(社説)

パキスタンのマララ・ユスフザイさんへのノーベル平和賞授賞式が10日行われる。教育の重要性を訴えた彼女の受賞は全世界でおおむね歓迎されている。確かに、暴力にも屈せず子供や若者の権利を擁護しようとする姿は素晴らしい。

ただイスラーム世界では、その功績を高く評価しつつも、「だからと言って西洋的な文化が優位にあると思い込まれては困る」との主張が明確にある。彼女はイスラームの価値観に立ち、迫害されるパレスチナの人々に心を寄せつつ、西欧的な思想にも理解を示しており、欧米人から見れば分かりやすく親近感を抱かれやすい。

平和賞は、例えばダライ・ラマ14世、ゴルバチョフ、中東紛争当事者のパレスチナ、イスラエル首脳やオバマ、ゴアら米国の政治家など、極めて政治的な意図が感じ取れる授賞も多い。あるいは、受賞が政治的に利用されるケースもよくある。今回も、これが反イスラームのキャンペーンに使われるなら、世界中の多くのムスリムの失望と反発を招くだろう。

平和賞の選考がそうだとは思いたくないが、異文化や異質なものに対する不寛容は、その姿勢を覆い隠すために、自らに近づいてくる者をことさらに歓迎してみせるという作為的演出を伴う。米国映画の「インディアン」もの、エイリアンものにそれが顕著だが、それはひとたび自分にはやはり理解不能と判断するや、徹底的な憎悪として発露する。1950年代、「赤狩り」の嵐が吹き荒れたハリウッドで、共産主義者を宇宙からの疫病の患者に見立て、「感染」した人々をライフルで片っ端から撃ち殺す作品があった。

「イスラム国」問題でも、その暴力的側面が批判されて世界的に孤立していることがイスラーム全体への偏見を広げ、国籍や民族による差別と貧富の格差を否定する穏健派のまっとうな主張までもが無視される。欧州などで迫害され疎外感を持つ若者が志願するという報道は多いが、その背景が掘り下げられることは少ない。

不寛容や無理解、無知が恐怖に結び付くと、例えばエボラ出血熱の感染地で患者治療に当たっていた米国の看護師が帰国後、まるで犯罪者か囚人のような扱いを受けたという事態のようになる。

イスラームが排他的だなどという、日本の宗教界にもまだ見られるステレオタイプの無理解に対して、マララさんは「平和、慈悲、兄弟愛の宗教です」と国連演説で述べている。そしてこう続ける。「襲撃者はなぜ教育に反対するの? それは彼らが書物に書かれていることが分からないから」