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宗教は「ソフトパワー」 共通の人間性の地盤に立脚

2015年4月1日付 中外日報(社説)

ソフトパワーとは、国際政治学者のジョゼフ・ナイが主張した力の行使に関する概念である。これは軍事力や経済力に代表されるハード面での力ではなく、人間性に訴えるソフト面での力であり、文化的魅力や精神的な価値観により人々を引き付け、感化し、共鳴を得ていくことにより行使される。

国内外で危険な事態や暴力事件が起こったときに、声高に聞こえてくるのがタカ派的な意見だ。外国の軍事的脅威が高まれば集団的自衛権による武力行使、未成年の凶悪犯罪が起これば少年法改正による厳罰化の主張などが典型的な例である。そこで強調されるのが軍事力や公権力によるハードな抑止力である。

しかし、なぜそうした出来事が発生するかといえば、その社会が葛藤を軽減し対立を回避させる一種の余裕を失っているからでもある。こうした社会構造上の問題がある故に、ハード面の力を持ちながら、逆にそのために過度の緊張をもたらし、暴力を誘発してしまうというパラドックスも生じかねない。ハードな抑止力にばかり頼る社会は、実は脆弱な社会である。

そうしたときこそ、いま一度、寛容な姿勢や人権の尊重を人々の間に呼び起こすことで、緊張状態を緩和し、強靭な社会につくり替えることが必要になる。このために有効な力がソフトパワーである。それが可能なのは、この力が立場の異なる人々が共有する普遍的な人間性に訴えるが故に、単にソフトな抑止力としてだけでなく、さらに進んで連帯と共感の輪を広げるソフトな推進力として機能し得るからである。

このように考えるならば、国内外の情勢が緊張をはらみ、対立が先鋭化していればいるほど、どんな国や民族、どんな人間でも共通に立ち得る人間性の地盤に立脚した思想とその実践が求められてこよう。そして、この担い手こそ宗教者であるべきだと思う。なぜなら、真の宗教思想は、神仏の無限な恩愛や慈悲の下に敵も味方も包み込んでいくものだからである。

思うに、宗教こそ究極のソフトパワーではないだろうか。宗教がソフトパワーを行使できるのは、ひとえに宗教者の人間性にかかっている。自らは神仏とのつながりを持つが故に、自らを誰よりも低い位置に置くことができる。その一つの証しがユーモアの姿勢であろう。ユーモアは共感の笑いである。それは自らを笑うことから始まる。このような姿勢からのみ、善人をも悪人をも摂取して見捨てることのない無限の包容力が生まれるのである。