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苦縁―東日本大震災 寄り添う宗教者たち
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苦難に立ち向かう 信仰に基づいた覚悟

2015年5月1日付 中外日報(社説)

「福島でつらいこと すやすや寝息の聞こえる この子らの その柔らかな まつ毛や頬を 撫でていました 被ばくさせるために産んだのではない 被ばくするために産まれたのではない」。福島第1原発の事故で不安にさいなまれて暮らす母親の詩だ。

このような苦難に宗教者は、宗教者としてどう対応できるのか。放射能を心配することを周囲から非難され続けるこの母親の涙ながらの訴えを受け止めたのは、東北のキリスト者の支援グループ。そのメンバーで神学者の川上直哉牧師は、近著『被ばく地フクシマに立って』で、原発事故を受けた神学の在り方を示している。

それは、弱い立場に追いやられた人々のために信仰者として「現場でどう祈ったらよいのか」という問いから始まるが、だがその前提には、牧師らがまず現に「現場にいる」こと、そして長期にわたって被災者を支え続けている実際の取り組みの積み重ねがある。その上で、20世紀以来の「現代神学の2つの移動」に言及する。

一つは「終末論の未来から現代への移動」、つまり「最後には神が何とかしてくれる」ではなく、「神は現在、苦しみの中にいて終末的裁きの到来を自ら引き受け、新しい世界を到来させる」。もう一つは「神の天から地への移動」すなわち、「高みから見下ろす神」を否定し、「衆生の中で自ら苦を引き受ける神」を確認する。そして、その神の前でその姿に倣い行動することが宗教者の役割だという主張は、然りだ。

現実問題の本質を、害悪をなす国家や企業のその奥にある「テクノクラシー」だと指摘する。「技術の支配」という意味だが、それは生き物のいのちとは対極の、「勝ち負けと損得(政治と商売)の言葉」に彩られ、「手続きと仕組み」の支配として現出する。そして害悪が生じても誰も責任を取らないことが最大の課題だ。これに対して宗教者は、誰かを非難して傍観者になるのではなく、害悪の「罪」を自らのものとして告白し、責任を引き受けることによって「当事者」となることで、問題に深く関わるべきだというのだ。

実際に「フクシマの当事者」として、世界に問題を訴えるため、原発と核兵器の廃絶に向けたWCC(世界教会協議会)の声明「核から解放された世界へ」採択に尽力した川上牧師は、旧約聖書「出エジプト記」で民の苦難からの解放を導いた預言者モーゼの姿を手本にする。震災から4年を経て混沌を増すこの社会で、深い信仰に裏付けられた覚悟と行いが宗教者に求められているようだ。